1237年 (嘉禎3年 丁酉)
 
 

8月4日 壬午 霽
  辰の刻大地震。
 

8月5日 癸未 [百錬抄]
  天王寺に於いて合戦有り。寺中死骸充満す。その穢定めて洛中に及ぶか。これ前の執
  行明順夭亡の後、彼の悪党等百余人寺中に乱入す。放火の企て有るべきの由普く以て
  風聞す。渡辺総官遮って以て襲い寄せ、悪徒を誅すと。
 

8月7日 乙酉
  評議有り。これ明春御上洛の間の事なり。且つは六波羅に於いて、建久の例に任せ御
  所屋を新造せらるべし。仍って国々に充てられ、悉く以てこれを施行す。今日京都の
  飛脚到着す。去る二日一品宮(当帝御妹、御歳六)薨御の由これを申す。また去る月
  二十七日摂録御上表と。
 

8月13日 辛卯 霽
  六波羅の飛脚参り、申して云く、去る五日四天王寺執行の一族上座覺順、二百余人を
  引率し、天王寺を保たんと欲するの間、渡部党相戦うの間、覺順以下九十三人討ち取
  られをはんぬ。余兵所々に於いて生虜らる。金堂以下放火すと雖も、皆打ち消すと。
 

8月15日 癸巳
  鶴岡放生会、将軍家御参宮。午の刻御出で。晴賢御身固めに候す。備中蔵人陪膳たり。
  すでに御車に寄す。前の民部少輔御劔役として庭上に下る。また直垂を着し帯劔せし
  む六位十五人階間の西方に候す。時に駿河の前司申して云く、御出の間帯劔の輩は、
  承久元年正月宮寺に於いて事有るに依ってこの儀を始めらる。これ近々に候し守護し
  奉るべきが故なり。而るに今日、その役人の内勇敢の類少し。御共に進すべしと。仍
  って次郎泰村・四男家村・五男資村・六男胤村等、布衣の行粧を直垂に改め、進み参
  り彼の衆に加う。駿州の傍若無人の沙汰、人の耳目を驚かすと。その後御出で。法会
  ・舞楽等例の如し。還御の後、夜に入り明月に対し当座の和歌御会在り。右馬の助・
  相模三郎入道・主計の頭・加賀の前司・大夫判官定員・伊賀式部大夫入道・城の太郎
  等その座に候す。また廣資(陰陽師)追って参加す。
 

8月16日 甲午 霽
  将軍家御参宮。大夫判官景朝(束帯)・伊豆判官頼定(布衣)等供奉す。馬場の儀を
  行わるるの間、北條の五郎時頼主流鏑馬を射らる。佐渡の前司基綱以下の五位流鏑馬
  の的役に立つ。河津八郎左衛門の尉尚景・佐々木七郎左衛門の尉氏綱以下の衛府十列
  競馬(十番)の役たり。行粧各々花美を極むと。別の御願に依ってこの結構に及ぶと。
 

8月18日 丙申 暴雨雷鳴
  今日、将軍家山舘に御遊行有るべきの由、その沙汰有りと雖も、雨に依って延引すと。