1238年 (嘉禎4年、11月23日 改元 暦仁元年 戊戌)年
 
 

7月2日 乙亥 天晴、午の刻以後雨降る
  今日任大臣の召仰なり。
 

7月9日 壬午 晴
  今日摂政殿宇治入りなり。扈従は殿上人数十人・公卿一人(御弟大納言殿と)。

[百錬抄]
  摂政宇治入りなり。人々見物すと。近日、一條大路・大宮末大路要害所兵士屋篝火を
  立つ。これ群盗を防御せんが為なり。諸人安堵の計なり。
 

7月10日 癸未 天霽
  寅の刻螢惑と鎮星と同変の由、司天の輩勘文を奉ると。
 

7月11日 甲申
  左京兆密々園城寺に参り給う。これ去年禅定二位家十三年の御忌景に当たり、彼の恩
  徳に報い奉らんが為、鎌倉に於いて書功を終えらるる所の一切経五千余巻、今日また
  件の御月忌を迎え、唐院の霊場に納め奉らるるに依ってなり。当寺は、聖霊の御帰依
  ・施主の御渇仰他所に異なると。経巻の奥毎に、左京兆の暑判を加えしめ給うと。
 

7月16日 己丑 天晴
  将軍家本座の宣旨を蒙らしめ給うと。
 

7月17日 庚寅、小雨降る
  准后(禅定殿下北政所)法性寺殿に於いて落餝せしめ給う。御戒師は飯室僧正良快と。
 

7月20日 癸巳 霽
  今日任大臣節会。左大臣(良實)・右大臣(實親)・内大臣(家嗣)と。
 

7月23日 丙申 晴陰、戌の刻小雨降る
  今日卯の一刻、将軍家石清水八幡宮に御参り。午の刻還御す。
 

7月25日 戊戌 晴陰
  法性寺禅定殿下御出家の後始めて御参内。前駈四人・坊官四人。緇素の後車各一両と。

[百錬抄]
  今夕、禅定太閤初めて参内せらる。緇素前駈各四人。僧綱扈従すと。
 

7月27日 庚子
  六波羅御造営所役の事、沙汰無きの国々相交るの間、その沙汰有り。早く弁償せしむ
  べきの由、今日仰せ下さると。