1239年 (暦仁2年、2月7日 改元 延應元年 己亥)
 
 

5月1日 庚午
  人倫売買の事、向後これを停止せらる。これ飢饉の比、諧わざるの族或いは妻子所従
  を沽却し、或いはその身を富裕の家に寄せ、渡世の計と為す。仍って撫民の儀を以て
  その沙汰無きの処、近年甲乙人面々の訴訟、御成敗の煩い有るに依ってなり。
 

5月2日 辛未
  五十嵐小豊次太郎惟重と遠江の守朝時の伺候人小見左衛門の尉親家と、日来相論の事
  有り。今日前の武州の御亭に於いて一決を遂ぐ。亭主の御不例未快と雖も、これを相
  扶けその是非を聞こし食さしむと(綿を以て御額に結び、鶏足を懸けらる)。匠作渡
  御す。主計の頭師員・駿河の前司義村以下評定衆等列参す。これ越中の国国吉名の事
  なり。惟重則ち当所は承久勲功の賞として拝領するの処、親家押領するの由これを訴
  う。親家また惟重の知行分は、全く惣名に亘るべからず、親家知行し来たるの旨これ
  を陳ぶ。各々の問答に及ぶ。親家その過を遁れ難きに依って、前の武州殊に御気色有
  り。当座に於いて侍所司金窪左衛門大夫行親を召し、親家を預かり守護せしむべきの
  由仰せ付けらる。またその子細遠州に仰せ遣わさると。遠州頗る恐れ申せしめ給うと。
 

5月3日 壬申
  国吉名の事、惟重裁許の御下知状を賜うと。
 

5月4日 癸酉
  未の刻将軍家聊か御不例。師員朝臣の奉行として、御占いを行わる。土公祟りを成し
  奉り、重煩せしめ給うべきの由、陰陽師七人一同これを占い申すと。
 

5月5日 甲戌
  御不例の事に依って御祈り等を行わる。
   焔魔天供  岡崎法印  右馬権の頭沙汰
   薬師護摩  大蔵卿法印 甲斐の守沙汰
   泰山府君祭 維範朝臣  後藤佐渡の前司沙汰
   大土公祭  親職朝臣  陸奥掃部の助沙汰
   霊気祭   廣相朝臣  兵庫の頭定員沙汰
   鬼気祭   泰貞朝臣  信濃民部大夫入道沙汰
   呪咀祭   晴賢朝臣  天野和泉の前司沙汰
 

5月11日 庚辰
  今日将軍家御沐浴の儀有り。医師良基朝臣御馬・御劔を賜う。また御祈り有り。如意
  輪護摩は安祥寺僧正(御湯加持)、天地災変祭は陰陽の頭維範朝臣。
 

5月12日 辛巳
  将軍家大納言僧都隆弁に仰せ、久遠壽量院に於いて最勝王経を転読せしめらると。
 

5月14日 癸未
  当時の訴論人は、勧農以後両方同時に参決せしむべきの由、普く以て触れ仰せらると。
 

5月15日 甲申
  前の武州御病痾の余気猶不散の間、未だ沐浴に及ばずと雖も、御判を御下知等の状に
  載せらるる事、連日更に懈緩せられずと。
 

5月16日 乙酉 [百錬抄]
  隠岐法皇の御骨左衛門の尉能茂法師懸け奉り、今日、大原に渡し奉り禅院に籠むと。
 

5月23日 壬辰 小雨降る
  申の刻、赤木右衛門の尉平忠光六波羅の飛脚として参着す。二十日未の刻出京、四箇
  日に馳せ付く。殆ど飛鳥の如し。即ち前の武州の庭上に於いて下馬す。去る十三日法
  性寺禅閤御不例。殊に御増気の由これを申す。仍って将軍家御周章の余り、陰陽の頭
  維範朝臣以下七人を召し御占いを行わる。各々別の御事有るべからざるの由勘じ申す。
  維範御大事の旨これを申すと。前の弾正大弼親實奉行たりと。
 

5月24日 癸巳 晴
  兵庫の頭定員使節として上洛す。禅閤御不例の事に依ってなり。前の武州の御使は平
  左衛門の尉盛時と。
 

5月26日 乙未
  前の武州禅定二位家の御得脱の為、作善を積まるる事、年々歳々未だ緩らず。その中
  彼の法華堂の傍らに於いて温室を建てらる。薪等の雑掌人を結番せしめ、毎月六齋日、
  僧徒に浴せしむべきの由沙汰有り。仍って後年の退転を誡めんが為、今日置文を定め
  らる。その状に云く、
    南新法華堂六齋日の湯薪代銭支配の事
   右の期以前、頭人の許に沙汰し進せしむべきの由、面々仰せ下さるる所なり。到来
   に随ってこれを請け取りて、寺家に進納せしめて、返妙を取り進せしむべきなり。
   もし期月の十日を過ぎて不弁進らして、遅々に及ぶ事あらむ時は、頭人の沙汰とし
   て挙銭を取って、先ず寺家に進納せしめて後、その懈怠の人々の手より、日数の久
   近を論ぜず、一倍を以て徴取せしむべきなり。その人もし一倍の弁を致さずして、
   猶以て難渋せしめば、頭人慥に事の由を申せしむべきなり。その時所領を召して、
   傍輩の懈怠を誡めらるべきものなり。但し頭人もし私の恨みを重くし、公事の功を
   軽くして、彼の懈怠の咎を隠して訴え申さずして、寺家の訴訟に及ばしめば、懈怠
   の人を閣いて、頭人の所領を召さるべきなり。兼ねてまたこの所課に限りては、此
   の如く定め置かるるの後、相互に分限の大小を論じて、痛み申せしむの輩あらば、
   これまたその科に行わるべきものなり。一人もし難渋の詞を出さば、傍輩皆以て習
   いを成すべきが故なり。それ初めて発言の人をおもく、これを誡めらるべきなり。
   何ぞ況や即ち頭人の身として不法を致さん人に於ては、永く棄て置かるべきなり。
   凡そ事の濫觴を謂うに、関東に候すの諸人、貴賤を論ぜず、上下安堵の思いを成し
   て、各一郷一村をも領知せしむ事は、偏にこれ二品禅定聖霊の御恩徳の然らしむる
   所なり。心あらむ輩誰か恩の誠を知らざらんや。而るにこの最小の所課に於ては、
   或いは忘却の由を陳じ、或いは過分の儀を称して、若くは遅々せしめ、若くは対捍
   せしめて、聖霊の御ために疎略を致さん事、只これ木石に類すべきものなり。木石
   の類に於いては、恩顧を施して、それ何の詮かあらんや。然れば則ち不法に至るの
   人々は、所帯をあらためられん事、更に拘わる所無きか。各々存知せしむべきの由、
   具に相触れらるべきなり。てえれば、仰せの旨此の如し。誠に恐惶すべし。所詮こ
   の巨細の仰せを承りながら、聊か懈怠に及わば、定めて悔いを貽さるべきものなり。
   早くこの御下知状を書写せしめて、各々座右に置かしめて、常に廃忘に備えらるべ
   きか。始め有りて終わり無きは古人の誡める所なり。今日はこれを驚くと雖も、後
   年は漸く心をゆるくせんものか。必ずその終わりを慎みて、永く後勘を遁れしめ給
   うべし。能々思慮有るべき事なり。普通の儀に准えべからず候。仍って執達件の如
   し。
     延應元年五月二十六日     左衛門の尉盛綱
 

5月29日 戊戌 [百錬抄]
  侍従中納言(為家)参着す。大外記師兼を召し仰せて云く、隠岐院を以て顕徳院と号
  し奉るべしてえり。治承崇徳院の例に依って勅書無し。ただ外記承り存ずるばかりな
  り。件の謚号の字、式部大輔為長卿勘じ申す。