1243年 (仁治4年、2月26日 改元 寛元元年 癸卯)
 
 

閏7月2日 丙午
  御持仏堂供花結願なり。将軍家日来手づから書写し給う所の法華妙典供養を遂げらる。
  導師は岡崎僧正、布施物等過差至極なり。諸人属目すと。
 

閏7月6日 庚戌
  洛中辻々の篝屋員数並びに立所を定めらると雖も、その地無きに依って、一両所今に
  未作と。仍って今日沙汰有り。彼の地の事、承久の没収注文を以て、便宜の地を尋ね
  出し、相伝せらるべきの由、六波羅に仰せらると。
 

閏7月7日 辛亥
  越堺の下人の事重ねて御沙汰に及ぶ。これ地頭と百姓と差別せしめば、更に落居の儀
  無きが故なり。前々の事に於いては、共に以て沙汰に及ばず。自今以後相交えて糺返
  せしむべきの由、加賀民部大夫に仰せ付けらると。