1245年 (寛元3年 乙巳)
 
 

4月6日 庚午 天霽
  入道従四位下行遠江の守平朝臣朝時(法名生西)卒す(年五十三)。数月脚気・チョ
  ウ病等に悩むと。公私これを惜しまずと云うこと莫し。
 

4月8日 壬申 天晴 [平戸記]
  今日平野祭なり。今夜祭除目を行わると、
   正五位下平光村(臨時)
 

4月11日 乙亥 [百錬抄]
  関東より飛脚到来す。今月六日遠江の守平朝臣朝時入道死去すと。
 

4月21日 乙酉 天霽
  左馬の頭入道正義美作の国の領所将来の由を称し、猿を御所に献ず。彼の猿の舞蹈人
  倫の如し。大殿並びに将軍家御前に召覧す。希有の事たるの旨御沙汰に及ぶ。教隆云
  く、これ直なる事のみに非ざるか。
 

4月22日 丙戌
  鎌倉中保々の奉行人等存知しめ沙汰を致すべき條々、今日定めらる。佐渡の前司基綱
  奉行たり。
   保司奉行人存知るべき條々
  一、道を作らざる事
  一、宅檐を路に差し出す事
  一、町屋を作り漸々路を狭める事
  一、小屋を溝上に造り懸ける事
  一、夜行せざる事
   右以前の五箇條、保々奉行人に仰せ禁制せらるべきなり。且つは相触れるの後七箇
   日これを立つに於いては、保奉行人は使者を相具し、破却せらるべきの状、仰せに
   依って執達件の如し。
     寛元三年四月二十二日     武蔵の守
    佐渡の前司殿
 

4月27日 辛卯
  基綱去る二十二日の御教書を写し、今日保奉行人に相触ると。