1245年 (寛元3年 乙巳)
 
 

5月3日 丙申
  今日諸人訴訟の事、その法を定めらる。所謂問註所に仰せ下さるるの処、事を左右に
  寄せ、当参の輩難渋せしむの條自由なり。奉行人の催促五箇度を過ぎらば、慥に注進
  せらるる交名に随い、罪科に処せらるべきなり。また奉行人・訴人参対の時不参せし
  め、申す詞を記さざれば、交名を註し申すべし。同じくその咎に処せらるべしと。ま
  た諸国の守護・地頭等、六波羅の召文に随わざる事、三箇度下知せしむと雖も参洛せ
  ざれば、所職を改易致さるべきの由と。
 

5月7日 庚子
  懸物の年記に就いて、美濃の国芥見庄を山田郷に付けらる。万年入道の御使たるべき
  の由と。清左衛門の尉これを奉行すと。
 

5月9日 壬寅
  金津蔵人次郎資成申す上野の国新田庄内米澤村名主職の事、懸物状を以て子細を申す
  と雖も、文暦の御下知相違無きの間、改めの沙汰に及び難きの由仰せ下さると。
 

5月22日 乙卯 天霽
  浜御倉内に小蛇出来す。五六箇日悩乱し、今日申の刻遂に死すと。仍って平左衛門入
  道盛阿の奉行として、卜筮並びに御祈り等を行わると。これ武州管領せしめ給うの庫
  倉なり。武蔵の国の乃貢を納めらると。
 

5月23日 丙辰 天霽
  将軍家(御歳七)御嫁娶有るべきに依って、日次(六月二十日)並びに造作(女房の
  局並びに御厩を広げらるべし)以下の條々その沙汰有り。これに依って御方違えの為
  日来遠江の守の亭(御所巽方)を点ぜらるると雖も、彼の第より御厩西方に当たり、
  秋節に至り王相方の御方違えたるべきの間、大僧正御房(恵良)の御壇所を以て、御
  方違えの所に定めらる。今夜より渡御すと。
 

5月25日 戊午 晴 [平戸記]
  右衛門の尉為俊来たり世間の事を談る。これ関東の間の事なり。遼遠の境尋ね来たる
  の間、飢えを支えんが為盃飯を与う。
 

5月26日 己未 天霽
  大納言家御所を将軍の御方に譲り奉らる。仍って今より御方違え無し。将軍の御方よ
  りは御造作の所その憚り無しと。
 

5月29日 壬戌 晴
  武州御不例有り。黄疸を患わしめ給うと。