1245年 (寛元3年 乙巳)
 
 

7月1日 癸巳 天霽
  日蝕現ず。
 

7月5日 丁酉 天霽
  前の大納言家(頼経)、久遠壽量院に於いて御素懐を遂げらる。御戒師は岡崎僧正(成
  厳)、御剃手は師僧正、指燭は院圓法印なり。讃岐の守親實(束帯)この事を奉行せ
  しむと。これ年来御素懐の上、今年の春彗星・客星の如き変異を示し、また御悩等重
  疉するの間、思し食し立ち給うと。

[百錬抄]
  前の大納言頼経卿出家すと(法名行智)。
 

7月6日 戊戌 天晴
  将軍家御方違えの為若狭の前司泰村の家に渡御す。御騎馬なり。供奉人皆歩儀たり。
  これ入道大納言家御所を将軍家に譲り奉らしめ給うの間、来十日御厩侍北の対を建て
  らるべし。西方に当たるに依って、秋節を違えしめ給わんが為なり。泰村の家御所よ
  り北方なりと。
 

7月13日 乙巳
  武州御第に於いて四角四方・鬼気等の祭を行わると。

[百錬抄]
  僧事を行わる。實賢僧正に任じをはんぬ。去る一日、日蝕御祈りの御勧賞なり。
 

7月16日 戊申
  月蝕正見す。

[百錬抄]
  月蝕なり。正現。
 

7月19日 辛亥
  幕府に於いて六字供を修せらる。大納言法印隆弁これを奉仕すと。
 

7月20日 壬子
  御所修理の後御移徙、儀式に及ばず、今夜内々入御すと。
 

7月24日 丙辰
  武州の第に於いて、法印(隆弁)如意輪供を修せらる。不例の気有るに依ってなり。
  而るに勤修七箇日に当たり、忽ち少減を得しめ給うと。
 

7月26日 戊午 天晴
  今夜武州の御妹(檜皮姫公と号す。年十六)将軍家の御台所として御所に参り給う。
  近江四郎左衛門の尉氏信・小野澤の次郎時仲・尾藤太景氏・下河邊左衛門次郎宗光等
  扈従す。これ厳重の儀に非ず。密儀を以て先ず御参、追って露顕の儀有るべしと。今
  日天地相去日なり。自から先例有りと雖も殆ど甘心せざるの由、傾け申すの輩有りと
  雖も、御許容に能わずこれを遂げらると。
 

7月30日 壬戌 天陰 [平戸記]
  伝聞、一日比(後聞二十三日の事と。京中の人々多くこれを見ると)、太陽東西の嶺
  より出逢う。人以て多くこれを見る。西日高く昇り漸く消えて見えずと。希代の事か。
  延喜末三日出ると雖も、東日遅々に出るか。東西出逢うの條未曾有か。