1248年 (宝治2年 戊申)
 
 

8月1日 乙亥
  左親衛甲斐の前司の亭に渡御す。下野の前司泰綱・出羽の前司行義等参会し、囲碁の
  勝負を決せらると。
 

8月7日 辛巳 晴 [葉黄記]
  興福寺僧正覺遍来たり。両都の衆徒すでに合戦に及ばんと欲するの由なり。承兼法印
  座主宮の御使として来たり。また山門の両門徒闘乱の事、政尊法眼梶井宮の御使とし
  て来たり。同事なり。南北の重事予に付けこれを申さる。恐れ有り憚り有り。然れど
  も朝の大事なり。仍って急ぎ御所に参りこれを申し入る。
 

8月9日 癸未 小雨 [葉黄記]
  参院。円満院宮御参。承兼・政尊等を召し山門の両門徒の事座主並びに梶井宮に仰せ
  られをはんぬ。
 

8月10日 甲申
  備前の国住人服部左衛門六郎御所中の奉公を致すべきの由これを望み申すに就いて、
  小侍所に於いて、先ず先々の奉公の證拠を尋ねらるる処、伊豫大夫判官義経平氏追討
  使として西海に在るの比、父祖等次将たるべきの旨、廷尉状を送り、剰え乗馬を賜う。
  また軍忠に感じ、重ねて賀章を出さると。仍って件の両通状を進覧するの間、その沙
  汰有り。今日評定を勘じ申すの処、承久元年以来、医陰両道の如きの類、御簡等に召
  し加えらるる事は、京都より御所に祇候せしむが故なり。父祖の例無きと雖も、御家
  人を号し今更奉公を聴さるるの條に於いては、掲焉の輩たるべき事か。遠国の住人等、
  ただ廷尉の内々の消息状ばかりを帯し、御家人の募りに存ずる事は、御許容に及ばざ
  るの由仰せ出さるる所なり。

[葉黄記]
  参院。御使として前の相国の許に向かう。南北衆徒の事仰せ合わさるるなり。
 

8月11日 乙酉 晴 [葉黄記]
  夜に入り武家使者(清賢・兼光)を送る。南都の間の事なり。
 

8月12日 丙戌 晴 [葉黄記]
  御所より召し有り。仍って急ぎ参る。南都衆徒の間の事沙汰有るなり。昨日武家の使
  い申すの趣申し入れをはんぬ。(中略)その間の事度々制止の院宣を下さる。今武家
  に仰せられ武士を差し進すべしと。長時重家・茂綱等を以て子細を申す。予これを伝
  奏す。また友景を以て相国の許に仰せ遣わす。相国即ち長時の許に仰せ遣わすと。
 

8月13日 丁亥 晴 [葉黄記]
  武士等衆徒の合戦を制止せんが為南都に下向す。今日より精進潔斎、放生会に依って
  なり。妊者の憚り有り。然れども先例有るに依って猶下向すべきの由仰せ下さるるな
  り。

[百錬抄]
  仰せに依って武士等数百騎南都に向かう。この間大衆等合戦すべきの由聞こえ有り。
  制止せんが為なり。
 

8月15日 己丑 天晴
  鶴岡の放生会なり。将軍家御出の儀有り。武蔵の守朝直朝臣御劔を持つ。伊豆太郎左
  衛門の尉實保御調度を懸く。
  先陣の随兵十人
   北條の六郎時定     武蔵の太郎朝房     遠江新左衛門の尉経光
   式部六郎左衛門の尉朝長 伯耆四郎左衛門の尉光清 土肥の四郎實綱
   小笠原の余一長経    出羽の三郎行資     越後の五郎時員
   三浦の介盛時
  後陣の随兵十一人
   相模の三郎太郎時成   千葉の次郎泰胤     上野の三郎国氏
   里見伊賀の彌太郎義継  薩摩七郎左衛門の尉祐能 常陸次郎兵衛の尉行雄
   肥後次郎左衛門の尉景氏 豊前左衛門の尉忠綱   隠岐次郎左衛門の尉泰清
   加地の太郎實綱     江戸の七郎重保

[葉黄記]
  深更御所より召し有り。労事有り遅参するの間、友景御使として入来す。南都衆徒の
  合戦武士下向の後退散すと。この上張本を召すべき事院宣を下さるべしと。予書き進
  すべきの由仰せ有り。
 

8月16日 晴 [葉黄記]
  参院。南北衆徒の事沙汰を申す。南都の事武士下向以後無為か。北嶺の事院宣を座主
  並びに梶井宮に遣わすべきなり。その間の事再三両方に申し合わされをはんぬ。
 

8月25日 乙亥 晴 [葉黄記]
  勧賞有り。正三位師継(権大夫人々を超ゆ)、正四位下頼嗣(臨時)、通世(権亮)、
  この外定めて叙爵有り。今夜今熊野遷宮なり。