1248年 (宝治2年 戊申)
 
 

7月1日 晴 [葉黄記]
  南都の栄圓・玄芸等今日武家に召し渡さる。前の相国(實氏)長時に仰せ遣わし使者
  (佐治左衛門の尉重家・真木野左衛門の尉茂綱・高橋左衛門の尉時光等と。直垂・小
  袴、郎等甲冑に及ばずと)を進す。御所門前に於いて渡すべきの由相国これを計り申
  さる。仍って予官人に仰せをはんぬ。可不を弁ぜず武士等冷泉西門外に候す。検非違
  使左尉章種・右尉章澄(以上立烏帽子を引き弓箭を帯し、毛沓白靱を着すか)等彼の
  両人を相具し参上す。縄を付けるに及ばず。但し布衣長(負剱)・放免等これを持参
  す。友景(相国後見、武家の事問答の仁か)門下に候しまた問答の事等有るか。武士
  門外に於いてこれを請け取る。両人乗馬せしめ六波羅に向かうと。六波羅に於いてま
  た他の武士に預けるか。今日貴賤の見物、月卿雲客また門下に立ちこれを見る。

[百錬抄]
  呪詛の張本武士に渡されをはんぬ。
 

7月2日 丁未 晴 [葉黄記]
  長時の使い(重家・茂綱)来たり、御所に於いてこれに謁す。栄円の申す詞等一切承
  伏せず。これに就いて子細を申す。時に興福寺三綱定寛(一条院に於いて栄円に問う
  の者なり)上洛し武家に向かう。子細を問答すべきの由仰せ下されをはんぬ。
 

7月3日 戊申
  来月十五日の鶴岡放生会、将軍家の御出有るべきに依って、供奉人の事日来その沙汰
  有り、人数を催せらる。今日交名を整え奉る。これを覧るに就いて、御前に於いて随
  兵以下の事これを差し定めらる。相州・左親衛申し沙汰せらる。陸奥掃部の助奉行た
  りと。
 

7月7日 壬子
  官途の事沙汰を経られ、人々多く恩許を蒙る。近江四郎左衛門の尉氏信廷尉の御挙に
  預かるべしと。
 

7月8日 癸巳 [葉黄記]
  武家の使い重家・茂綱等来たり。栄円の事子細の問答をはんぬ。
 

7月9日 甲寅
  諏方兵衛入道蓮佛始めて寶壽公の御方の雑事を執行す。日来辞し申すに依ってこれを
  閣くと。
 

7月10日 乙卯
  雑務の條々その沙汰有り。教経等勘じ申して云く、所謂父祖所領を質券に入れ、弁を
  致さず死去せしむの時、後家並びに子息に譲り與えしめをはんぬ。而るにその所を得
  るの仁、親の出挙たるに依って、平均に支配すべきの由これを申す。自余の子息等、
  名字を差し質券に入るの上は、その所知行の仁沙汰を致すべきの由これを申す。次い
  で亡妻養子の事、凡そ女人は自専の法無し。養子は、夫免さざるの外は、女人の養子
  は免さざる所なり。次いで亡妻遺物の事、その子息有らばこれを進退すべきなり。一
  子無きの時は、夫これを進止すべからず。妻の祖家に返すべし。また盗人の罪科軽重
  の事、先日定め置かれをはんぬ。而るを彼の状を守り、小過たりと称し一倍の弁を致
  すの後、猶以て小過の盗犯を企てば、重科に准え、一身の咎に行わるべきか。この趣
  を以て、雑人奉行等存知べきの由仰せ出さると。

**盗人罪科軽重の事[鎌倉幕府法]
  宝治二年七月十日事書内、明石左近将監奉行
   先日定め置かれをはんぬ。而るを彼の状を守り、小過たりと称し、一倍の弁を致す
   の後、猶以て小過の盗犯を企てば、重科に准え一身の咎に行わるべし。この趣を以
   て雑人奉行等存知しむべきか。