1250年 (建長2年 庚戌)
 
 

4月2日 丁酉
  諸人訴論の事、引付に於いて文書の理非を勘決するの間、了見を加えるの処、旨趣分
  明たらば先規に任せ、対決するに能わず。また引付の事、巳の刻以前これを始行すべ
  し。頭人と云い、奉行人と云い、遅参に及ぶこと莫れ。且つは時付の着到を進覧すべ
  きの由、三方引付に触れ仰せらると。秋田城の介奉行たりと。
 

4月3日 戊戌
  鶴岡神事なり。
 

4月4日 己亥
  幕府に於いて御勝負の事有り。人々参集す。前の右馬権の頭・尾張の前司・武蔵の守
  ・秋田城の介の如き着座す。面々合手の引出物に及ぶ。この間式部兵衛太郎光政等喧
  嘩有り。引出物を以て合手に投ず。仍って満座の興宴頗る醒めをはんぬ。時に前の右
  典厩殊に禁制を加えるの間、光政座を起つと。
 

4月5日 庚子
  評定の次いでに、式部兵衛太郎光政去る夜御前に於いて無礼の事を現すに依って、罪
  科に処せらるべきや否やその沙汰有りと雖も、相宥めらるる所なり。但し向後を誡む
  べきの由、式部大夫入道光西に仰せ付けらると。

[百錬抄]
  上皇熊野より還御す。
 

4月16日 辛亥
  山内證菩提寺の住持申す当寺修理の事、清左衛門の尉満定の奉行として、今日その沙
  汰有り。早く損色を召し、土木の功を成すべきの由仰せ出さる。これ右大将家の御時、
  佐那田の余一義忠の菩提を資けんが為、建久八年建立するの後、雨露相侵すと雖も、
  未だこの式に能わずと。
 

4月20日 乙卯
  保々検断の奉行人及び地下・凡卑の輩に仰せ、太刀並びに諸人夜行の時弓箭を帯す事、
  停止せしむべきの由と。明石右近将監兼綱仰せを諸方に伝うと。
 

4月25日 庚申
  諸御家人任官の間、本官無きの輩、直に左右衛門の尉に任ずべきの由これを望み申す。
  向後停止すべきの由仰せ出さる。清左衛門の尉奉行たり。
 

4月29日 甲子
  雑人訴訟の事、諸国は在所地頭の挙状を帯し、鎌倉中は地主の吹挙に就いて子細を申
  すべし。その儀無くば、直訴に用いるべからざるの由、今日問注所・政所に仰せ遣わ
  さる。これ濫訴の族を禁しめられんが為なりと。