1250年 (建長2年 庚戌)
 
 

7月1日 乙丑
  来月の鶴岡八幡宮の放生会御出有るべきに依って、供奉人等の事、今日御前に於いて
  御沙汰有り。当参の惣人数に於いては、用捨するに能わず。悉くこれを催し具すべし。
  面々の行粧等の事に至りては、尤も仰せ分けらるるべきの由と。
 

7月5日 己巳
  評定、本銭三百文を以て入れ流す質人の事、仰せらるるの法有り。所謂仮令二貫文、
  一倍の時はこれを流すべし。二貫文以下は文書に依るべからず。納め来たる銭を以て
  請け取るべきの由と。
 

7月8日 壬申
  承久逆乱の時院中に参るの輩の跡の京都屋地の事、没収分に相漏れ現在するの由、御
  沙汰に及ぶと。
 

7月11日 乙亥
  勝長壽院の法会なり。奥州・相州結縁の為参り給う。評定衆以下群参すと。
 

7月13日 丁丑 [百錬抄]
  閑院造営の次第日時定めなり。中納言資季卿已下これに参る。
 

7月15日 己卯
  故二位家の御本尊白檀の釈迦像、更に供養の儀有り。導師は法印道禅なり。これ相州
  の御願と。
 

7月18日 壬午
  申の刻大地震。その後小動十六度と。今日秋田城の介義景の男子出生すと。
 

7月22日 丙戌
  都鄙の神社廃陵の事、殊に興行の御計有るべきの由、御沙汰に及ぶ。勅願所の事に於
  いては、追って奏聞に任せらるべし。先ず関東御分の所々に至りては、定め置かるる
  の旨に任せ修理の功を抽んずべし。もしまた大破に及わば、不日に言上せしむべし。
  その左右に随い御沙汰有るべきの由仰せ出さるる所なり。これ当世の別当・神主等、
  ただ仏物・神領を貪り、敢えて興隆の志無きの旨、度々評定の時群儀を凝らし此の如
  しと。