1250年 (建長2年 庚戌)
 
 

6月3日 丁酉
  山内並びに六浦等の道路の事、先年輙く鎌倉に融通せしめんが為、険阻を直さるると
  雖も、当時また土石その閭巷を埋むと。仍って故の如く沙汰を致すべきの由、今日仰
  せ下さると。
 

6月10日 甲辰
  評定有り。雑人訴訟の事法儀を定めらる。所謂百姓と地頭と相論の時、その誤り無く
  ば、妻子・所従以下の資財・雑具に於いては糺返せらるべきなり。田地並びに住屋は
  その身に安堵せしむるや否やの事、地頭の進退たるべきの由と。また懐妊の後の離別、
  男子は父に付くべしと。
 

6月15日 己酉
  将軍家造泉殿に逍遙せしめ給う。奥州・相州並びに評定衆少々参候す。酒宴・御連歌
  有り。白拍子参上し芸を施す。和泉の前司行方以下猿楽に及ぶと。
 

6月19日 癸丑
  相州三浦の介盛時の家に渡御す。前司・左馬権の頭等参会すと。
 

6月24日 戊午
  今日佐介に居住するの者俄に自害を企つ。聞く者競い集まり、この家を囲繞しその死
  骸を観る。この人の聟有り。日来同宅せしむの処、その聟白地に田舎に下向しをはん
  ぬ。その隙を窺い、艶言を息女に通わす事有り。息女殊に周章し、敢えて許容するこ
  と能わず。而るに投櫛せしむの時取らば、骨肉も皆他人に変るの由これを称す。彼の
  父潛かに女子の居所に到り、屏風の上より櫛を投げ入る。彼の息女不意にしてこれを
  取る。仍って父すでに他人に準じ志を遂げんと欲す。時に図らずして聟田舎より帰着
  す。その砌に入来するの間、忽ち以て慙に堪えず、自害に及ぶと。聟仰天し、悲歎の
  余り、即ち妻女を離別す。彼の命に随わざるに依ってこの珍事出来す。不孝の致す所
  なり。芳契を施すに能わざるの由と。剰えその身出家を遂げ、修行舅の夢後を訪うと。