1253年 (建長5年 癸丑)
 
 

8月2日 戊申
  御教書違背の科に依って、分ち召さんが為所帯を注進すべきの由、遍く難渋の輩に触
  れらると。
 

8月13日 己未
  放生会供奉人の事その沙汰有り。御調度懸けの事、武藤左衛門の尉景頼辞退するの間、
  彌次郎左衛門の尉親盛に仰せらる。また若槻伊豆の前司眞兼これを催せられずと雖も、
  望み申すに依って人数に加えらると。
 

8月14日 庚申 甚雨
  寅の刻鶴岡上下宮の正殿遷宮たるなり。今度始めて西門脇に於いて三所大明神を勧請
  し奉らるる所なり。相州参り給う。御神楽有り。右近将監中原光正宮人曲を唱うと。
 

8月15日 辛酉 晴
  鶴岡の放生会なり。御参宮有るの間、供奉人等参進す。而るに尾張の前司時章は進奉
  せしむと雖も、刻に臨み所労の由を申す。伊勢の前司・遠江次郎左衛門の尉等不参を
  奉ると。また信濃四郎左衛門の尉行忠は、日者布衣の人数たるの処、今朝その儀を改
  め随兵と為す。人数不足の故なり。将軍家南面に出御す。先ず晴茂朝臣(束帯)御祓
  いを勤む。陪膳は花山院中将、役送は能登右近大夫仲時と。大麻を取り、陪膳し奉る。
  去年御参宮の時此の如し。而るに晴茂申して云く、先度失念に依って役送に伝えをは
  んぬ。更に例と為すべからずと。頻りに子細を申すと雖も、遂に改め仰せられず。そ
  の後御出で(半蔀の御車、御束帯)。西門を出御し、若宮大路を北行、赤橋の砌に到
  り御下車。
  出御の行列
  先陣の随兵
   武田の三郎政綱     渋谷左衛門の尉武重   遠江六郎左衛門の尉時連
   田中左衛門の尉知綱   信濃四郎左衛門の尉行忠 出羽の三郎行資
   足利の次郎顕氏     上野の三郎国氏     北條の六郎時定
   尾張の次郎公時
  次いで前駈
  次いで殿上人
   花山院中将       伊豫中将
  公卿
   土御門宰相中将(顕方卿)
  次いで御車
   式部兵衛太郎光政    大須賀左衛門四郎    海上の彌次郎胤景
   梶原右衛門太郎景綱   三村新左衛門の尉時親  善右衛門次郎康有
   武藤の七郎兼頼     武藤次郎兵衛の尉頼泰  加藤の三郎景経
   小野寺新左衛門の尉行通 肥後の彌籐次
    以上直垂を着し帯劔、御車の左右に候す。
  御劔役人(布衣) 前の右馬権の頭
  御調度懸け    彌次郎左衛門の尉親盛
  次いで御後(布衣)
   武蔵の守朝直      遠江の前司       相模右近大夫将監時定
   相模式部大夫時弘    陸奥掃部の助實時    中務権大輔家氏
   駿河の四郎兼時     上野の前司泰国     参河の前司頼氏
   能登右近大夫仲時    伊豆の前司頼定     出羽の前司行義
   壱岐の守基政      和泉の前司行方     佐々木壱岐の前司泰綱
   越中の前司頼業     佐渡五郎左衛門の尉景隆 出羽次郎左衛門の尉行有
   梶原右衛門の尉景俊   善右衛門の尉康長    和泉五郎左衛門の尉政泰
   太宰肥後次郎左衛門の尉為時           天野肥後次郎左衛門の尉景氏
   狩野五郎左衛門の尉為廣 加地七郎左衛門の尉氏綱 小野寺四郎左衛門の尉通時
   長左衛門の尉朝連    長次右衛門の尉     常陸次郎兵衛の尉行雄
  後陣の随兵
   相模の八郎時隆     千葉の介頼胤      上野五郎兵衛の尉重光
   伊豆太郎左衛門の尉實保 大須賀次郎左衛門の尉胤氏 壱岐次郎左衛門の尉家氏
   氏江の余三       土屋の新三郎光時    南部の次郎實光
   武石の四郎胤氏
  御奉幣事終わり、廻廊に入御し舞曲を覧る。この間奥州・相州・前の太宰の少貳為佐
  ・佐渡の前司基綱・前の大蔵少輔朝廣・内藤肥後の前司盛時・安藝の前司親光等予め
  この所に候せらる。また前の右馬権の頭・武蔵の守朝直・出羽の前司行義等は、更に
  召しに応じ参加すと。
 

8月16日 壬戌 巳の刻甚雨、雷鳴両三声、未の刻晴に属く
  鶴岡の馬場流鏑馬以下例の如し。将軍家御出で。供奉人等昨日に同じ。右衛門の尉氏
  綱今日の御沓手長たり。佐渡五郎左衛門の尉御幣手長たるべきの由仰せらるるの処、
  憚り有るに依って辞退すと。秉燭の程に還御す。松明を取ると。
 

8月30日 戊午
  下総の国下河邊庄の堤築固すべきの由沙汰有り。奉行人を定めらる。所謂清久の彌次
  郎保行・鎌田の三郎入道西佛・対馬左衛門の尉仲康・宗兵衛の尉為泰等なり。