1261年 (文應2年、2月20日 改元 弘長元年 辛酉)
 
 

8月1日 辛卯
  鎌田次郎左衛門の尉・善六郎左衛門の尉、直垂着に催すべきの由と。景頼奉る。
 

8月2日 壬辰
  伊勢入道行願小侍所に触れ申して云く、愚息頼綱(三郎左衛門の尉)当時在国するの
  処、放生会供奉人に加えられをはんぬ。先立ち鹿食の事有りと。免許有るべきかと。
 

8月3日 癸巳
  武蔵の五郎随兵たるべし。越後の四郎布衣を着し供奉すべきの由仰せ下さると。
 

8月5日 乙未
  小泉四郎左衛門の尉直垂衆に加うべきの由と。出羽籐次郎左衛門の尉布衣を着すべき
  の旨仰せらるるの処、日数すでに迫るの間、狩衣用意し難きの由辞し申すと。今日障
  りを申すの輩、
   城五郎左衛門の尉(始め進奉すと雖も、労せしむ由申す)
   伊東八郎左衛門の尉
   伯耆四郎左衛門の尉
    已上二人所労の由申す。
 

8月7日 丁酉
  駿河の五郎随兵を辞退する事、始め則ち流鏑馬役に勤仕するの間、計会の由申す。後
  また所労の由を称す。仍って度々仰せらるるの処、去る六日の如き請文は、病痾難治
  の間灸を加うの趣なり。而るに出仕に当たるの上は固辞然るべからず。重ねて催すべ
  きの由と。また直垂着の中、伊勢の四郎、父伊勢入道分として流鏑馬射手の由申すの
  間、左右無く恩許有りと。
 

8月8日 戊戌
  布衣の供奉人その闕有るに依って、越中五郎左衛門の尉・同六郎左衛門の尉等を加う
  べきの由仰せ出さると。
 

8月10日 庚子 天晴
  駿河の五郎の事、去る八日重ねて催促するの処、猶以て難治の由請文に載す。仍って
  その沙汰有り。故障の趣その理無しと雖も、当時の如きは随兵数輩有るか。免許有る
  べきの由、仰せ出さると。また尾張の守行有・隠岐の守行氏等は布衣を着し供奉すべ
  しと。御身固めの陰陽師、この間九人なり。今日六番に縮めらる。晴茂・晴宗等重服
  の間、職宗・茂氏等父の名代としてこれを勤仕す。而るに彼の労効に募り、相並び父
  共に召し加えらる。その例を以て為親朝臣子息仲光また召し加えらるるの処、範元申
  して云く、父子相並ぶべくば、仲光は範元の下臈なり。超越せらるべからずと。和泉
  の前司の奉行として評議有り。宿老の奉りを閣き、弱冠の類父子相並ぶの條、然るべ
  からざるの由仰せ出さる。職宗・茂氏・仲光等その衆を除かる。仍って本の番衆晴茂
  ・宣賢・為親・晴秀・資俊・泰房等六人なり。
 

8月12日 壬寅
  放生会随兵の内、常陸左衛門の尉行清一人先陣の最前に候すべし。出羽七郎左衛門の
  尉行頼は必ず後陣たるべきの由定め下さると。
 

8月13日 癸卯
  将軍家の御願として御劔を諸社に奉らる。筑前次郎左衛門の尉行頼これを奉行す。次
  いで放生会御出の間の事、條々その沙汰有り。先ず供奉人着座の所を定めらる。十五
  日は、随兵は例の如く西廻廊の東方に候すべし。狩衣を着すの輩は東廻廊前たるべし。
  十六日は、随兵は埒門南の左右(西南に在り)に着すべし。次いで座席の事は、東は
  腋門前より東に至る迄布衣の人少々、その次ぎに先陣の随兵着すべし。西は廻廊より
  西に至る迄布衣の人また少々、その次ぎに後陣の随兵たるべし。次いで宮内権大輔・
  長門の前司・宇都宮石見の前司・大隅大炊の助・壱岐三郎左衛門の尉・伊勢三郎左衛
  門の尉等各々鹿食の事有るに依って、供奉を辞し申す間の事、行方・景頼等の奉行と
  して内々その沙汰有り。太だ自由なり。放生会以後、殊にその沙汰有るべきの由と。
  この間の事、平岡左衛門の尉實俊一人これを申し沙汰す。工藤三郎右衛門の尉光泰軽
  服の故なり。而るに實俊の奉行仰せ難きの由、越州これを申せらるるに依って、相模
  の太郎殿より平三郎左衛門の尉を差し副えらるるの間、座席の事存知すべきの旨仰せ
  含めらる。
 

8月14日 甲辰
  放生会の條々重ねてその沙汰有り。所謂、随兵並びに布衣・供奉人等の次第を立て進
  覧すべきの旨、越後の守に仰せらるるの処、位次に任せ次第を立てるに於いては、子
  細に及ぶべからず。然らずんば左右無く計り申し難きの由、景頼を以てこれを報じ申
  せらる。重ねて仰せに云く、位次に依るべからず。且つは家の清花に任せ、且つは嫡
  庶を分け次第を立つべきなりてえり。御持仏堂前の公卿の座に於いては、越州並びに
  武藤少卿等これを相談すと雖も、位次の次第に非ずんば、凡そ遵行し難きの間、猶そ
  の由を言上す。この上はその儀を止めらると。次いで中御所御参有るべきに依って、
  供奉人を定めらる。これ平三郎左衛門の尉奉行すべきに依って、その散状を下賜す。
  将軍家御共の如く、直垂を着す者これに候すべし。帯劔せしむべきや否や沙汰有り。
  然るべからずと。次いで伊勢次郎左衛門の尉頼綱・佐々木壱岐四郎左衛門の尉長綱鹿
  食咎の事、父壱岐の前司泰綱・伊勢入道行願等これを愁い申すに就いて、評定の次い
  でその沙汰に及ぶ。御免有りと。次いで小野澤の次郎・山田の彦次郎、直垂着に催加
  すべきの由仰せらると。次いで供奉人等宮中に於いて着座すべき次第これを定めらる。
  両方御桟敷の前、御妻戸の外を除き、布衣衆その下に候すべし。両国司着座の前を除
  き、東は先陣随兵の座たるべし。西は後陣随兵の座たるべしと。
 

8月15日 乙巳 晴
  鶴岡放生会。御息所舞楽を覧んが為渡御す(御輿)。その後将軍家御出で。
  供奉人、
  先陣の随兵
   武田の三郎政綱     小笠原の六郎三郎時直  城の六郎顕盛
  (一人最前に候すべきの由兼日定め有りと雖も期に臨み此の如し)
   常陸左衛門の尉行清   三浦六郎左衛門の尉頼盛 信濃次郎左衛門の尉時清
   足利上総の三郎満氏   千葉の介頼胤      新相模の三郎時村
   遠江の七郎時基     武蔵の五郎時忠
  御所の御方
  布衣
   相模の太郎     刑部少輔    弾正少弼     尾張左近大夫将監
   越後右馬の助時親  民部権大輔   相模の三郎    越後の四郎
   木工権の頭     和泉の前司   佐々木壱岐の前司 越中の前司頼業
   後藤壱岐の前司   同新左衛門の尉 縫殿の頭     日向の前司
   尾張の守行有    隠岐の守行氏  大隅修理の亮   武藤左衛門の尉
   甲斐三郎左衛門の尉   上総太郎左衛門の尉長綱 善五郎左衛門の尉康家
   梶原太郎左衛門の尉景綱 伊勢次郎左衛門の尉   紀伊次郎左衛門の尉為経
  (御笠手長)進三郎左衛門の尉 肥後四郎左衛門の尉 河内三郎左衛門の尉祐氏
   三村新左衛門の尉時親  足立三郎左衛門の尉   長次右衛門の尉義連
   加地七郎右衛門の尉氏綱
  帯劔
   式部次郎左衛門の尉光長 城の十郎時景      武石新左衛門の尉
   周防六郎左衛門の尉忠頼 筑前五郎左衛門の尉行重 佐々木対馬の四郎宗綱
   出雲次郎左衛門の尉時光 足立籐内左衛門三郎政遠 後藤壱岐次郎左衛門の尉基廣
   宇佐美三郎兵衛の尉祐明 薩摩新左衛門の尉祐重  甲斐五郎右衛門の尉為定
   遠山の孫太郎景長    小泉四郎左衛門の尉頼行 善六左衛門次郎盛村
  後陣の随兵
   駿河の五郎通時     武蔵の八郎頼直     遠江十郎左衛門の尉頼連
   武石三郎左衛門の尉朝胤 小野寺新左衛門の尉行通 隠岐三郎左衛門の尉行景
   大曽彌太郎左衛門の尉  小田左衛門の尉時知   土肥左衛門の尉
   完戸次郎左衛門の尉家氏 河越の次郎経重     出羽七郎左衛門の尉行頼
  中御所の御方
  布衣
   陸奥左近大夫将監  相模の四郎   越前の前司   武蔵左近大夫将監
   遠江右馬の助    刑部権の少輔  対馬の前司   武藤少卿
   伊賀の前司     周防の前司   加賀の守    薩摩七郎左衛門の尉
   土肥四郎左衛門の尉   出羽彌籐次左衛門の尉  鎌田図書左衛門の尉
   甲斐次郎左衛門の尉   足立三郎右衛門の尉   梶原太郎左衛門の尉
   伊勢次郎左衛門の尉   肥後次郎左衛門の尉   越中五郎左衛門の尉
  直垂
   出羽八郎左衛門の尉   信濃判官次郎左衛門の尉 伊賀次郎右衛門の尉
   伊東次郎左衛門の尉   梶原三郎左衛門の尉   近江三郎左衛門の尉
   上総の四郎       善五郎左衛門の尉    小野澤の次郎
  官人
   足利大夫判官      上野大夫判官
  廻廊に参る人々
   相模の守政村朝臣    武蔵の守長時      武蔵の前司朝直
 

8月16日 丙午 天晴
  御参宮昨に同じ。流鏑馬以下例の如し。