1261年 (文應2年、2月20日 改元 弘長元年 辛酉)
 
 

9月3日 壬戌 霽
  弁法印審範の長病すでに危急なり。これ顕密の碩学たるに依って、殊に賞翫せらるる
  所なり。而るに今日申の一刻相州禅室最後の御対面の為、彼の雪下北谷の宿坊に入御
  す。武田の七郎・南部の又次郎・工藤三郎右衛門の尉光泰・同木工左衛門の尉等御共
  に候す。審範持仏堂に於いて謁し奉る。顕密事理の法門、重々問答せしめ給うと雖も、
  酉の刻に及び帰らしめ給わんと欲するの刻、禅室重ねて仰せられて云く、最初行摂の
  願、返す返す憑み有りと。宗門に於いて大悟を開き御うと雖も、尚以て行摂の縁を結
  び給う。賢慮尤も量り難きものか。
 

9月4日 癸亥 天晴
  申の刻法印権大僧都審範入滅す(年七十三)。
   熱田大宮司散位季範の曾孫、法橋明季の眞弟子、顕宗長舜法眼の門弟、最勝講の講
   職、三会已講、密宗道禅僧正の受法、公縁僧正灌頂の弟子、貞永元年鶴岡八幡宮の
   供僧。
  夜に入り女房師の局、審範臨終正念の由、相州禅室に申すの処、哀傷の中御悦びたる
  の由感じ仰せらると。
 

9月9日 戊辰 天霽
  大曽彌次郎左衛門の尉盛経入道の家焼亡す。
 

9月19日 戊寅
  御息所御服薬(蒜)の為、明日山内亭に出御有るべきに依って、供奉人の事散状を廻
  らさる。供奉人皆直垂を着すべし。御輿寄せ役人は立烏帽子を用ゆべしと。散状三通
  有り。一通は騎馬、一通は歩行、一通は山内殿に御坐すの程祇候せしめ、御格子役以
  下に勤仕すべきの人数なり。また小侍所司工藤三郎右衛門の尉光泰、二所参詣の間、
  着到等の事、暫く小野澤の次郎時仲をして奉行せしむべきの由定めらると。
 

9月20日 己卯 天晴
  夜に入り若宮大路焼亡す。今夕中御所最明寺の御第に入御す。御服薬・御薬湯等の事
  の為、暫く御坐有るべしと。
  供奉人
   刑部少輔    新相模の三郎   相模の三郎   同七郎
   遠江の七郎   越後の四郎    武蔵の五郎   秋田城の介
   和泉の前司   宮内権大輔    武藤少卿    後藤壱岐の前司
  歩行
   城の九郎長景      出羽七郎左衛門の尉    武藤左衛門の尉
   小野寺新左衛門の尉行通 周防四郎左衛門の尉忠泰  甲斐三郎左衛門の尉
   上野太郎左衛門の尉景綱 大曽彌太郎左衛門の尉長頼 鎌田次郎左衛門の尉行俊
   武石新左衛門の尉長胤  肥後四郎左衛門の尉行定  佐々木対馬の四郎宣綱
   一宮次郎左衛門の尉康有 小野澤の次郎時仲