1263年 (弘長3年 癸亥)
 
 

9月3日 庚辰 天晴・陰
  午の刻従五位上行刑部権の少輔大江朝臣政茂卒す(年)。
 

9月10日 丁亥
  切銭の事その沙汰有り。近年多く以て出来するの由その聞こえ有り。自今以後に於い
  ては切銭を用いる事これを停止すべし。この旨を存じ普く下知せしむべきの由、左典
  厩等に仰せらると。その状に云く、
  [ 切銭の事
   右近年多く出来するの由その聞こえ有り。自今以後に於いては、切銭を用いる事こ
   れを停止すべし。この旨を存じ普く下知せしむべきの状、仰せに依って執達件の如
   し。 ]
     弘長三年九月十日       武蔵の守
                    相模の守
        加賀の前司殿
 

9月12日 己丑 終夜甚雨、戌の刻雷鳴
  武蔵大路霹靂、卒塔婆を蹴裂す。その上三尺余り雷火の為焼く。蹴裂の声人屋に響く。
  聞く者甚だ多しと。今日遠江十郎左衛門の尉京都より帰参す。
 

9月13日 庚寅 天晴
  寅の刻以後将軍家御悩。今朝諸人挙って登山して、去る夜の雷火焼く所の卒塔婆を見
  る。非時雷鳴、その慎み軽からざるの由、陰陽道等勘文を進す。

[増鏡]
  夜、亀山殿の桟敷殿にて、御歌合せさせたまふ。右は関白殿、今出川のおほきおとど
  (公相)、皇后宮の御父の左大臣より下、皆この道の上手どもなり。左は大殿(良實)
  より、かずだてつくりて、風流の洲濱、沈にて造れるうへに、銀の船二に、いろいろ
  の色紙を巻き重ねてつまれたり。左右の読師、一度に御前に参りてよみあぐ。
  本院の御製、外よりは時雨もいかがそめざらむわがうえて見る山のもみぢ葉
 

9月14日 辛卯 天晴
  御悩に依って、晴宗御所に於いて泰山府君祭を勤仕す(初度の勤仕なり)。星降臨す。
  効験掲焉なり。
 

9月26日 癸卯 晴
  入道陸奥の五郎平實泰(法名浄仙)卒す(年五十六)。