1263年 (弘長3年 癸亥)
 
 

11月2日 己卯 天晴
  左衛門少尉清原眞人満定頓死す(年六十九)。
 

11月3日 庚辰 [続史愚抄]
  日吉の神輿横川中堂より帰座す。
 

11月8日 乙酉
  相州禅室御労の事に依って御祈祷等を加えらる。先ず今日中に等身の千手菩薩の像を
  造立し、供養の儀有り。導師は松殿僧正良基なり。即ち伴僧十二人を以て、相共に昼
  夜不断の千手陀羅尼を誦せらる。僧正五穀を断つ。伴僧一日三箇度の行水有り。次い
  で尊家法印北殿に於いて延命護摩を修せらる。次いで陸奥左近将監義政、一日の内等
  身の薬師像を造立し、尊家法印を請じ導師と為し、供養を遂げらると。また尊海法印
  等身の薬師画像を帯し、七箇日三嶋社に参籠せしめんが為、今暁進発す。三時護摩を
  修し、大般若経を信読すべしと。
 

11月9日 丙戌
  加賀の前司行頼所労危急の間、政所執事筑前三郎左衛門の尉行實沙汰を致すべきの由
  仰せ付けらると。
 

11月10日 丁亥
  前の加賀の守従五位下藤原朝臣行頼卒す(年三十四)。
 

11月13日 庚寅
  最明寺禅室の御不例すでに危急に及ぶの間、尊家法印法華護摩を修す。松殿僧正山内
  の第に於いて、五穀を断ち行法を修すと。
 

11月15日 壬辰
  禅室の御祈りに依って、松殿僧正今日不動護摩を始行す。また三時護摩有りと。
 

11月16日 癸巳 晴
  午の刻御息所御着帯。御験者は大納言僧正良基(香染の法服、伴僧二人、大童子等こ
  れを具す)、医師は玄蕃の頭丹波長世朝臣(布衣)、御祓いは陰陽権の助晴茂朝臣(束
  帯)、宿曜師は大夫法眼晴尊等なり。また尊家参上すと。太宰の少貳景頼これを奉行
  す。戌の刻地震。
 

11月17日 甲午 霽
  供養の放光仏を図絵せらる。これ尊家法印申し行うに依って、御産の時に至るまで、
  連日供養を奉らるべしと。
 

11月19日 丙申
  相州禅室の御病痾、縡すでに危急に及ぶ。仍って最明寺北第に渡御有り。心閑かに臨
  終せしめ給うべきの由思し食し立つ。尾籐太(法名浄心)・宿谷左衛門の尉(法名最
  信)等に仰せ、群参人を禁制すべきの由と。
 

11月20日 丁酉
  早旦北殿に渡御す。偏に御終焉の一念に及ぶ。昨日厳命を含むの両人、固くその旨を
  守り人々の群参を制禁するの間、頗る寂寞たり。御看病の為六七許輩祇候するの外人
  無し。所謂、武田の五郎三郎・南部の次郎・長崎次郎左衛門の尉・工藤三郎左衛門の
  尉・尾籐太・宿谷左衛門の尉・安東左衛門の尉等なり。
 

11月22日 己亥 晴
  未の刻小町焼亡す。南風頻りに吹き、甚烟御所を掩う。仍って御車二領南庭に引き立
  て、御出の儀に儲く。爰に前の武州亭前に至り火止む。戌の刻入道正五位下行相模の
  守平朝臣時頼(御法名道崇、御年三十七)最明寺北亭に於いて卒去す。御臨終の儀、
  衣袈裟を着し、縄床に上がり坐禅せしめ給う。聊かも動揺の気無し。頌に云く、
    業鏡高懸、三十七年、一槌撃砕、大道坦然。
     弘長三年十一月二十二日    道崇珍重々々
  平生の間、武略を以て君を輔け、仁儀を施して民を撫す。然る間天意に達し人望に協
  う。終焉の刻また手に印を結び、口に頌を唱へて、即身成仏の瑞相を現す。本より権
  化の再来なり。誰かこれを論ぜんや。道俗貴賤群を成しこれを拝み奉る。尾張の前司
  時章・丹後の守頼景・太宰権の少貳景頼・隠岐の守行氏・城四郎左衛門の尉時盛等哀
  傷休み難きに依って、各々鬢髪を除う。その外御家人等の出家、甄録に遑あらず。皆
  以て出仕を止めらる。また武蔵の前司朝直朝臣落餝せんと欲するの処、武州弾正少弼
  を以て頻りに禁遏を加えらるるの間、素懐を遂げずと。
 

11月23日 庚子 天晴
  酉の刻相州禅室の葬礼なり。今日御息所御産の御祈り以下の事これを施行せらる。奉
  行太宰の少貳景頼出家するの間、縫殿の頭師連これを奉る。また御験者大納言僧正・
  護持僧大貳法印・医師長世朝臣等、去る二十二日の晩に至るまで、最明寺禅室病脳の
  間、或いは祈精を致し或いは医術を廻らす。仍って御産の間の事各々これを辞し申す
  と。
 

11月24日 辛丑 天晴
  将軍家哀傷十首の御詠有り。これ最明寺禅室の御事に依ってなり。
 

11月25日 壬寅
  寅の刻月房第三星(相去ること四寸の所)を犯す。房主は左右馬寮なり。左典厩殊に
  謹慎有るべきの由、司天等これを申す。
 

11月27日 甲辰 [続史愚抄]
  去る二十二日入道相模の守平時頼卒す由、関東より注進有り。