1265年 (文永2年 乙丑)
 
 

5月2日 己亥
  去る月二十二日、関白(實経、一條殿)拝賀。去る十六日二條殿上表せらるるに依っ
  てなりと。
 

5月3日 庚子 天陰
  日中五大尊合行法結願せらる。今日故武州禅門の忌景たり。泉谷新造堂に於いて仏事。
  導師は若宮僧正隆弁と。
 

5月5日 壬寅 天晴
  御所に於いて大般若読経を始行せらる。経衆十人と。
  僧名
   権少僧都兼伊
   権律師房譽  房盛  景弁  實雅  浄昭  頼弁  盛弁  兼弁
          賢弁  弁盛  兼朝  信勝  頼意  弁譽  房朝
 

5月10日 丁未 天晴、夕より終夜甚雨
  御息所御懐孕の間、今日御祈りを始めらる。業昌朝臣天冑地府祭を奉仕す。押垂掃部
  の助御使たり。
 

5月23日 庚申
  高柳の彌次郎幹盛と縫殿の頭文元と、所領に就いて相論の事有り。幹盛確執の余り訴
  え申して云く、文元陰陽師たりながら、その子息等太刀等を帯び、偏に武士の如し。
  早く本道の威儀を為すべきの由仰せ下さるべしと。仍って今日評議有り。縫殿の頭子
  息大蔵少輔文親・大炊の助文幸等、陰陽師の子孫たりと雖も、右筆を相兼ねるの上、
  七條入道大納言家の御時幕府の官仕を致し、或いは宿直を勤め、或いは格子上下役を
  為す。武州前史禅室・最明寺禅室二代、此の如き作法を以て奉公せしむべきの由仰せ
  られをはんぬ。今更これを改め難し。但し官途に於いては、本道を相兼ねず、右筆役
  ばかりを以て奉公を致すの輩、官位を限り、雅意に任せ任ぜらるるの條然るべからず。
  御免を蒙り任ずべきの旨仰せ出さると。文親は本道を相兼ね、文幸は右筆ばかりなり。