1 尉が島(天狗棲む)

 咲初むる花を薪に折添えて春をも運ぶ舟路かな、抑も相模国三浦郡桜の御所と聞えしは、
三浦三崎宝蔵山に在り、国中第一の絶景にして、満山千株の桜春毎に延年の色を現わし、
烟波万頃の海水長えに麓の渚を洗う、昔右大将頼朝公此地の風景を愛し給い、花の朝・月
の夕常に鎌倉より御遊あり此に桜の御所を建てヽ、花に長楽の契りを籠め給いしとかや、
鎌倉三代の栄華も一炊の夢と過ぎ行きて、残る名残の桜の御所、花は昔に変らねども変り
果てたる世の有様、今は後柏原天皇の御宇、足利将軍義植公の御時、此地を始め鎌倉一円
を領せしは、三浦大介義明が十余代の遠孫三浦道寸入道義同とて、武勇鋭き武人なりけり、
道寸は関東の管領上杉修理大夫朝興の老臣なるが、世の乱れに乗じて竊に関東八州を奪わ
んとの志あり、常に四隣を蚕食して威を遠近に振いけれども、独り隣国金沢の城主楽岩寺
下総守種久は勇猛人に勝れ、殊に其娘小桜姫、女ながらも父の武勇を承けて力七十人に対
し、古の巴板額を欺く勇婦なりければ、父を助けて所々の合戦に交名を顕わし、父子の勇
名関東に隠れなきより、道寸も容易に其の攻め難きを察し、表に和睦の意を示して竊に其
折を窺いける、然るに下総守種久は予め宝蔵山桜の御所の風景を聞伝え、三浦家とは親し
き仲なるを幸い、永正八年三月娘小桜姫を伴い、従者数十人を引連れて三浦三崎に来りけ
る、道寸竊に此事を聞き、是屈竟の折柄なり、種久父子が油断を見済し、不意に討取って
楽岩寺の領地を奪うべしと嫡男荒次郎義意を始め、三浦家名代の勇臣大森越前守・佐保田
河内守等を新井の本城に聚めて其評議を為しけるに、荒次郎義意大に驚き「コハ父上の仰
せとも覚えず、我家と楽岩寺家とは何の怨もあらざるに、所領を奪わん欲心より不義の合
戦を起し給わば、関東八州の大小名誰か復た幕下に来り候べき、殊更種久は容易に討取る
べき敵に非ず、生中怨を結んで不義の名を受けんこと末代の恥辱に候、構えてお思召し止
まり給え」と面を冒して父を切諫なしければ、道寸も我子の諫めに力なく「然らば此義は
思い止まるべし、去りながら尉が島の要害を人に見透されては一大事なり、汝行きて例の
如く尉が島を守るべし」と荒次郎を其島に遣わしぬ、
 去程に楽岩寺下総守は三崎に着して宝蔵山に登り見るに、頃しも弥生の半にて、花は今
を盛りと咲き乱れ、さながら時ならぬ白雲が此山を包みしかと怪まる、天は晴たり、日は
長閑なり、風も和ぎけん海は一面の鏡の如く、前には安房・相模の津々浦々を望み、沖に
連なる真帆・片帆、漁り舟さえ見えつ隠れつ、其風景実に言語に絶したれば、下総守は小
桜姫と共に暫く桜の御所に立ち休らい、四辺を眺めて従者に向い「聞きしに勝る此地の風
景、世に類なき眺めかな、四辺に見ゆる名所旧跡委しく聞かば、復一入の興ならんに、誰
かある、此地の案内を知りたる者はなきか」と尋ねたり、従者の中より一人進み出で「某
は毎度此地に来り、所の者より四辺の案内を聞きて候、先ず向うに見ゆる高山は房州一の
富山にて、山の此方は鏡が浦、浦に連なる岬こそ音に名高き洲の崎の鼻にて候」、種久「し
て彼方に見ゆる島の上に烟の高く立昇るは、アレこそ伊豆の大島なるか」、従者「さん候、
大島の三原山とて舟人が夜の便りと承る」、種久「島に連なる山々は」、従者「伊豆の天
城・相模の箱根、富士の高嶺は雲の上に在り、其下なるは二子・大山、山の此方の入江こ
そ小淘の浜にて候なり」、種久「面白々々、後ろに見ゆる一城は三浦家の本城網代新井の
城なるか」、従者「去ればに候、此城こそ前に網代の入江を控え、後ろに油壺の天険を備
え、鳥ならでは入ること難き名城と聞え候、アレ御覧ぜよ、城の彼方に樹木鬱蒼として繁
れるは新井の城の千段櫓、其西なるは諸磯の浜と申し候」、種久「実にも要害厳しき名城
なり、扨此前の小島こそ尉が島と覚えたるが、尉が島明神は霊験荒たかなりと承る、汝も
参詣致したるか」、従者「去れば某も参りたる事の候、此明神は一年一度ならでは参詣し
難き所にて、毎年五月五日に島開きあり、其時信心の者大勢一つ舟に乗り、島に渡って明
神に参詣致すものなるが、参詣済めば決して後ろを振返らずして、其侭舟に立帰るなり、
もし後ろを振返れば裏山に棲める天狗に攫われ、忽ち命を失うと申し候」、此時小桜姫は
父の前に進み「妾に心願の子細あり、是より尉が島の明神に参詣致したく候」と申しけれ
ば、種久よりも従者は驚き「姫君は物に狂わせ給うか、五月五日の島開きならでは行くこ
と難き彼の島へ、御渡りあらんこと危き業なり、もしも天狗などの出で候わば如何にせん」、
小桜姫「仮令天狗・鬼神なりとも人に害なすものならば、唯一刀に斬って捨てん、殊更妾
は心願の子細あって神に参詣するものを、ナニ妨げのあるべきぞ」と勇気を含んで申しけ
れば、父種久莞爾と笑い「いしくも申しつるものかな、扨其心願の子細は如何に」、姫「余
の儀には候わず、天晴れ妾に勝りつべき大剛の勇士を良人に持ち、父君の御武功を助けた
く候」、種久「尤もの心願、然らば明神へ参詣致すべし」と許しける、姫は心利きたる従
者数人を召連れ、忽ち舟を用意して、さしも怖ろしき魔所と聞えし尉が島へ赴きける、