2 唯一矢(射殺さん)

 春の海の水は干潟に流るれど、舟は潮路を漕ぎ抜けて尉が島へと急ぐなり、小桜姫は舟
端に立上り、小手を翳して島の景色を見渡せば、周囲一里に足らねども巉岸高く聳えて、
打揚ぐる浪白竜を躍らし、上には老杉天に朝して森々として昼尚暗し、此の物凄き有様こ
そ実に里人の魔所と称えて容易に到らぬも理なり、抑も此島を尉が島と名くる事如何なる
謂れあるやらんと、小桜姫舟人に尋ね給えば、舟人畏り「さればに候、昔此島に一人の尉
棲み、又彼なる沖の島に一人の姥の棲み候が、朝夕顔を見合せども海を隔てたれば語るに
由なし、互の志は深けれど舟なければ渡る事も叶わず、共に岸辺に立出でて海を眺めて歎
けるが、竜神も哀れに思いけん、毎年一度五月五日に海亀を浮べて、姥を此島に渡された
り、されども夏の夜の短きは語らう暇もなき内に、再び海亀に促され、復彼の島へ帰され
ければ、姥は本意なき事に思い、或日大木の潮に流れて寄りけるを、渡りに舟と棹して竊
に此島に来らんとしけるが、竜神の怒りにや触れけん、或は霊木の祟りにや、波に揺られ
て海に沈めり、尉は岸より其有様を眺め、泣く泣く大木を引寄せ見るに、幹に〆縄張りた
れば、こは疑いなき神木とそぞろに渇仰の念起り、島に曳揚げ、其木を以て玉津島明神の
尊影を刻み、此に祭りて、其身も百年の齢を保ちしかとや、其の刻める尊影こそ今も明神
の御身体にて、向うに見ゆる亀の子岩は其時の海亀なりと申伝えて候」と島の由緒を物語
る、折から舟は岸に着けり、舟人怖れ戦きて御参詣終りなば、疾く疾く帰り給うべしと姫
を陸地に卸しければ、姫は従者の中より心利きたる郎党七内・八内の両人を択び、七内に
は弓矢を持たせ、八内には我が好める大薙刀を担わせ、道なき草を踏分けて明神山に登り
ける、見れば石段高く並びて、其数百にも余るべし、苔滑かにして足の溜らん様ぞなし、
石段の左右は杉の大木枝を交え葉を累ね、道暗くして闇夜を辿るに異ならず、されども大
勇剛の小桜姫斯る悪所を事ともせず、石段を登りて祠の前に到るけるに、満山陰々として
音もなく声もなし、玉兎昼眠る雲母の地・金鶏夜宿す不萌の枝とは斯る処か物凄や、姫は
祠に立寄りて尊影を伏し拝み「アワレ尉が島明神に霊あらば、妾の良人に無双の勇士を授
け給え」と心の中に祈念なし、やがて祠を立出でて尚後ろの山に登らんとし給えば、七内
・八内大に驚き「御礼拝済み候わば速に御舟に帰り給え、人の怖るヽ裏山へ御登りありて
何かせん」と袖を引留め諫めける、姫は莞爾と打笑い「此山の頂上こそ海陸一円を見渡し
て如何に眺め良きやらん、斯る勝地を魔所として人の登らぬ愚かさよ」と道に当る荊棘を
踏み分け二三町彼方へ進みけり、是より山は一段高きを加え、樹木生い茂りて方角をも忘
るヽ計りなるが、忽ち向うの丘の上に凄まじき物音して、目方七八十貫もあらんと覚しき
大岩忽然と人々の前に落ち来たる、七内・八内魂を消し「スワこそ天狗の所為なり」と頭
を抱えて身を縮むる、姫は早くも七内が持てる弓矢を手に取り、イデヤ妖怪御座んなれと
矢を番えて待ち掛けたり、此時忽然として岡の上に現れたるは、其丈七尺にも余りつべく、
頭の髪は銀の糸を植えたる如く、顔赭くして鼻飽くまで高く、世に所謂る天狗鬼神の類と
は是ならんと覚しき姿にて、此方を望み声を掛け「此は人間の来るべき所に非ず、速に帰
らざれば天罰あらん」といと厳かに云い放てり、世の常の者ならば此有様に驚きて、魂身
にも添わざるべきに、大勇の小桜姫は吃と其姿を睨め「ヤア汝は鬼神の装いを為せども、
声は正しく人間と覚えたり、盗賊か、曲者か、我が行く道を妨げなば唯一矢に射殺さん」
と弓を満月の如く引絞りぬ、鬼神は忽ち以前に勝りし大岩を、いと軽々と目より高く差上
げたり、山は愈々物凄し、幽に聞ゆる怪鳥の声、