36 無実の罪(身に負わん)

 時ならぬ父の使いは何事ぞと、荒次郎両士を招きて尋ねけるに、大森越前守言葉を正し
「大殿道寸公の御下知には今日限り若殿を勘当致す、早々当城を立退くべしと仰せにて候」
と申しけるに、寝耳に水の荒次郎大に驚き「こは思も寄らぬ仰せを承るものかな、父上の
厳命とあらば敢て死する事をも辞せざれど、某に如何なる罪あって斯かる御不興を蒙りし
ぞ」、越前守「サア其事は某も委しく存じ候わねども、人の噂に御家臣の中若殿を擁して
道寸公に野心を抱くものありと聞え候」、荒次郎慨然として歎息し「扨は某も其野心に荷
担したるものと思し召れたるか、身不肖ながら荒次郎、日頃父上に対し奉りて孝行の道を
こそ心掛候え、嘗て露程も不孝の心を出せし事なし、日月未だ地に堕ちずんば、天も照覧
あるべきに、某が心通ぜずして御疑いを掛け給うこと是非も無し、某が他心無き潔白を明
さん為、此所に於て切腹致すべし、汝等それにて実検致し、能く我心を父上に申上げよ」
と御覚悟の気色なれば、佐保田河内守進み寄って留め参らせ「若殿の御孝心深く坐すは城
中の武士一人として知らぬものは候わず、然るに此度の御不興、全く讒者の言に拠る所と
覚え候、一旦の御覚悟にて今此に御生害あらば、讒者益々悪言を放ち、若殿こそ陰謀の露
見せん事を怖れて御生害ありしと申すべし、それは却て死後の御不覚にて候、某も死を以
て大殿を諫め参らせしが、今は御疑い深く坐せば言い解くべき便も無し、一旦当城を御立
退あって暫く余所に身を忍び給わば、無実の御疑い何とて晴ざる事の候べき、今若殿を失
い奉らば、当城の武威衰えて唯敵人の喜びとなり候わんのみ、能く御思慮あって、唯此侭
に御立退あるが肝要にて候」と両眼に涙を浮べて諫めけり、荒次郎愁然として頭を垂れ「我
が行いに欠くる所無くんば讒者の言も入るまじきに、心届かず父上の御疑いを招きしは我
が不徳の致す所、一たび不孝の身となって、何処の果に身をや置くべき、是は某自ら父上
の御前に参り、我身に誤り無き旨を申し開き、讒者の言を取糺して事の黒白を判つべきな
り、其上にてもし父上の御疑い晴ずば、御前に於て切腹致さん、汝等も共に来るべし」と
立上り給う、大森越前守心中に怖れを為し、大勇の若殿が讒者の言を取糺すとて、我等親
子を疑い給わば身を遁るヽに道も無けん、こは若殿を大奥へ入れざるに如くは無しと、是
も表に悲みの色を顕し「仰せは去る事なれども、大殿の御憤りは以ての外にて候、初め若
殿に腹切らせよと御下知ありしを、我等種々に諫め参らせて、漸く御勘当と仰せ出されし
程にて候、今大奥へ御入りあらば、却って益々大殿の御立腹を増すばかりに候わん、何事
も跡の事は某等に御任せありて、一旦当城を御立退召さるべし、某等後に大殿の御心を解
き参らせ、必ず若殿を御迎え申し候わん」と言葉巧に留めける、是は心の変れども、佐保
田河内守は真実の忠義より若殿を留め参らせ「此事の御無実なるは当城の武士の皆知る処
にて候えば、後に臣下一同より願いを上げ、必ず大殿の御疑いを解き参らすべし、浮雲月
を蔽うとも、永く光を隠すものに候わず、何事の唯時節を御待ち候え」と両士頻に諫めけ
る、荒次郎歎息し「成程是も天の時節にやあらん、然らば無実の罪を身に負いて当城を立
退くべし、我が心中の無念、河内守察し呉れよ」と鬼を欺く両眼にも燦然として涙を浮べ
給う、河内守概きに沈んで顔を揚げず、荒次郎義意は何物も身に着けず、其侭新御殿を立
出で、棲馴れし新井の城を後ろにして、唯一人佐島の浦に出で給う、然るに忽ち後ろの方
に当って人馬の音遙に聞えければ、荒次郎振返って眺むるに、今新井の城中より誰とも知
らぬ一手の軍卒、甲冑に身を固め獲物を携えて追馳せ来る、荒次郎奮然と怒りを発し「扨
は讒者めが勘当に飽き足らずして、討手の兵を差向けたるか、其儀ならば様こそあれ」と
佩きたる太刀の鯉口寛げ、大道の真中に仁王立に突立ちたり、