37 落行く先(厚木へこそ)

 やがて一手の軍卒は荒次郎の前に近づきたり、先に進みたる菊名左衛門重氏馬よりヒラ
リと飛降り、荒次郎の袖に縋りて言わんとせしが先だつは涙なり「御痛わしや、若殿には
日頃の御孝心通ぜずして、大殿より御勘気を受け給いしとかや、御覧の如く城中の諸士は
若殿の御大事と聞伝え、期せずして新御殿に聚まりしもの三百余人、若殿ハヤ御立退あり
しと承り、御跡を慕い参らせて是まで推参仕り候、忠義に堅き城中の武士、如何様にも若
殿の御身を守護し奉りて讒者を糺さん覚悟にて候えば、是より某が持城菊名の城へ御入り
あるべし」、「我等御供申さん」と一同口を揃えて申しける、荒次郎其志を感じ「我身の
討手と思いしに、斯くまで我身の為を思う汝等が志感ずるに余りあり、さりながら我は無
実の罪を晴さん為、当城を立退いて時節を待たん覚悟なるに、汝等を率いて菊名の城へ入
らば、無実の罪が実となりて、却て父上の御憤りを増さん、事々しきは我身の為ならず、
唯城中へ引取りて時節を待ち候え」と懇に宥め給う、重氏涙を払い「然らば我等一同の御
願いにて候、何処までも若殿が御出あらんずる所まで、我等に御供仰せ付け下されたし、
若殿御立退あらば城中の諸士誰を頼りに留り候わん、虎臥す野辺・荒浪寄する浜にても候
え、若殿が御出あらん処まで御供申し、命に換えて忠節を尽し候べし、此儀ばかりは御許
しあれ」と申しければ、荒次郎迷惑し「汝等が志はさる事なれども、行方定めぬ浪々の身
を以て、何処に汝等を伴うべき、我無くとも父上道寸公に忠節を尽し参らせて、当城を堅
固に守りなば、それこそ我身の望む所、今汝等を連れて立退かば、我は謀叛の罪に落ちん、
我が心中を察しなば唯兎も角も留り候え」、諸士一同は悲歎の体「若殿の御供叶わずば甲
斐なき命なり、此処に於て切腹致し候べし」、「我等も刺違えて死なんものを」と一同浜
辺に円居して、あわや覚悟の体なれば、荒次郎声を励まし「汝等は我が言葉を用いざるか、
命に背くは不忠であるぞ」と叱りける、一同是に躊躇いたり、左衛門重氏諸士に向い「斯
くまでの仰せなれば御言葉に背くは恐れあり、一同は是より城中へ引返し、時節の来るを
待ち候え、某一人諸士の名代として若殿の御供申し、もし御大事あらば諸士へ知らせ申す
べし、如何に若殿、某は兼て大森越前守と仲悪しく候えば、若殿御立退あらば越前守必ず
某を害し候べし、迚も留り難き身の上なり、某一人を諸士の名代と思し召し、此度の御供
仰せ付け下さらば、諸士も御言葉に従って城中へ引き取り候わん」と他事なく願いける、
荒次郎打案じ「勘当受けたる身を以て、私に郎等を召連れんこと、父上に対して恐れあれ
ど汝の願いも黙し難し、然らば汝一人を許すべし」と仰せある、重氏悦んで諸士を諭し「仮
令処は変れども心は変らぬ忠義の諸士、若殿の御大事と聞くならば、何処へなりとも馳せ
着けられよ」、諸士「仰せにや及ぶべき、陸の奥・築紫の果なりとも、若殿の御為なれば
即座に参着致すべし、重氏どの一同に成り代り、能く若殿の御身を守護致されよ」と涙な
がらに立別れ、城中差して帰り行く、
 荒次郎義意は松の木陰に立休らい、悵然として暫く新井の城を眺めけるが、流石名残の
惜しまれけん、立ちも遣られぬ風情なり、重氏も共に袖を絞り「扨若殿には是より何処へ
御越あらん御覚悟にて候」、荒次郎「行方定めぬ旅なれば、何処へ行かん当も無し、さり
ながら遠く離れては当城の危急に応じ難し、御勘気の身なれども、敵勢当城を囲んで父上
の難儀と相成る事あらば、馳せ着けて討死致すべし、近国に身を忍ぶべき所あるか」、重
氏「さん候、当国厚木に某の知己あり、若殿をそれまで御案内申さん」、荒次郎「厚木と
あらば小田原へ程近し、今我家の大敵は小田原の早雲なれば、厚木に潜んで小田原の動静
を窺うべし」と主従打連れ、佐島の浦を立出でて厚木へこそは急ぎける、