38 渡舟(出し候え)

 住馴れし新井の城を跡に見て行方定めぬ旅の道、名残惜しくも我が領内三浦の境を打過
ぎて、其日の夕暮に荒次郎義意は当国一の大河なる相模川の岸に着きにけり、郎等菊名左
衛門重氏義意に向い「日はハヤ暮れて候えども、此辺りは小田原の領地なれば、人に見知
られんも心憂く候、是より厚木まで最早三里に足らず、月のある内に道を急ぎ、厚木まで
御越しあって然るべく候」、義意「さあらば此川を渡るべし、渡舟は無く候か」、重氏「ア
レ御覧ぜよ、此川上に人は無けれど舟一艘葦の間に繋ぎあり、岸に渡守の小屋見えたるは
これこそ一の宮の渡しと覚え候、渡守を呼び起し、舟を出させ申すべし」と重氏其小屋に
進み寄り「のうのう渡守、是は厚木へ通う旅人なり、渡舟を出し候え」と呼わる声に渡守、
眠を覚して表に立出で「仰せにて候えども近頃子細の候間、暮るれば舟を止め候」、重氏
「扨其子細は如何なる事ぞ」、渡守「さればにて候、御覧の如く此川向いは、音に名高き
相模野が原続き天神が原と申し候、近頃当国阿芙利山の方より一群の狼此原に移り棲み、
夜に入ば人を取りて食い候、さるに依て此程より夜は此川を渡さぬ事に定め候、是より二
里ほど川下へ御下りあらば仲瀬の宿にて候ほどに、今宵は其宿に御泊あり、明るを待って
此川を御越しあるべし」、荒次郎義意進み寄り「二里の道を戻るほどならば三里の道を行
くに如かじ、狼の害は心得たり、酒手を増して取せんほどに、疾く舟を出し候え」、重氏
も言葉を添え「我等は武士なれば狼を怖るヽものならず、仰せに任せて渡舟を出すべし」、
渡守頭を振り「イヤイヤ一匹二匹の狼なれば、御武勇を以て討取り給わんは易けれども、
狼と申す獣は常に百千群を為して人を襲い候、されば今迄御武家達の強て此川を渡られし
人多くあれど、皆天神が原にて狼の為に喰殺され、明くれば空しく原中に無惨の骨を留め
候、我等夜中の渡しを閉じ申してより不思議にも此原を無事に通りしものは、先頃来りし
末広売の狂女一人にて候」、義意主従不審に思い「ナニ男子も越えぬ其原を女の身にて通
りしとはそは如何なる狂女なるぞ」、渡守「其狂女に就いて不思議の事の候、御物語申す
べし、ツイまだ遠からぬ事ぞかし、或夜夜更て番小屋の前に聞馴れぬ女の声聞えければ、
我等立出で見るに、まだ年若き女の姿形は世に勝れて美しきが、如何なる故の物狂いにや、
髪を乱し素足にて笹の葉に扇を結び、人も居らざる川岸に立って末広召せと呼びけるが、
やがて此小屋の前に来り、厚木へ急ぐものなれば渡舟を出してたもと何程に宥めても、狼
の怖ろしきを申しても、狂女の事故理解無し、果は自ら流れに臨んで川を渡らんとするほ
どに、我等痛わしく思いしが、渡さずんば水に溺れんばかり故、心ならず舟を出して向う
の岸に渡し候、あわれや狂女は天神が原にて狼の餌食となりしよと夜明けて原中を尋ねし
に、狂女は見えず狼が彼方此方に打殺され、其数百にも余るべし、或は頭を割られ、或は
足を折られ、其様大木なんどにて唯一打に打殺されたるものの如し、我等不思議に思い、
厚木より来れる旅人に狂女の事を尋ぬれば、矢張り変らぬ姿にて、厚木の町に末広を売り
歩くよし、狂女と見えしは鬼神天狗の化したるものか、世に不思議の事にて候」と今更の
様に物語りける、義意重氏を顧み「此辺りに斯る勇婦のありとも覚えず、それは必ず」、
重氏「扨彼の君にて候らん、御痛わしや狂女とまで」、義意「なるも果無き運の末、いざ
我とても行末は寄辺も知らぬ渡舟、渡りて厚木へ急ぐべし、如何に渡守、女さえ渡る此川
を我等渡らで如何にせん、兎も角も舟を出し候え」と渡守を促し、舟に乗て向うの岸に着
きにけり、月は暗し、小夜の嵐の吹き落ちて、いと物凄き景色かな、