44 雨乞鳥(名物にて候)

 秋の枯野に花に遭い、雪の深山に鶯の初音を聞きし人心、其悦び如何ならん、小桜姫垣
の外に忍んで今立出ずる客人の顔を視れば、思いきや三浦荒次郎義意と菊名左衛門重氏な
り、あら懐かしの主従よと、姫は飛立つ想いして両人が前に立出でんとせしが、イヤ待て
暫し、人の心も知らずして軽々しき振舞を成さば、思慮無き女と笑われん、荒次郎殿初め
より此家に居給いたれば、我身の様子は知り給わん、然るに態と素知らぬ体に見過ごし、
人伝手に恵みの物を賜わりしは必ず深き子細あるべし、こは我身も忍んで御跡を慕い参ら
せ、折を見て名乗り出でんこと宜かるべしと、竊に垣の外を抜け出で見え隠れに荒次郎の
跡を慕い行く、
 さりとも知らぬ荒次郎主従は厚木大膳に誘われ、遙に厚木の宿を離れて名も知らぬ高山
に入りにけり、三浦にて朝夕見馴れし山の姿と事変り、此辺りは相模・甲斐両国に跨る大
山脈の続きなれば、層巒畳々として半ば雲に入り、時は今春過ぎ夏の初めなれども谷間に
残る遅桜、初花よりも珍らしく、遠く眺むれば富士の高嶺に尚も残りの雪白し、前は茫々
たる相模野が原千里一望、武蔵野に連り見渡す限り涯も無し、幽に見ゆる青海原、相模灘
とは是ぞかし、灘の向うに当って一帯の遠翠髣髴として半ば霞に隠れたるは、問わでも知
るき三浦の山々、山隠す霞ぞ春は怨めしき、何れ都の境とは古人の歌なれども、是は忘れ
ぬ故郷の網代新井の城をだも隠す怨みぞ薄霞、晴よ遙けき安房の海、鏡が浦も懐かしや、
「如何に我君、あれに見えたる庵室こそ隠者の住みし跡にて候、先ずあれに御入り候え」
と厚木大膳先に立って主従を庵室に伴えば、荒次郎倩々其辺りの体を眺め「如何にも世を
離れたる仙境かな、そも此山の名を何と申し候ぞ」、大膳「されば此山の形鳶の尾に似た
れば迚鳶尾山と申し候、前を流るヽ此谷川は源を此奥の丹沢山に発し、流れて相模川に入
り候、固より早瀬の谷川なれば、源にて早戸川と申し、此辺りにては中津川と称え候」、
義意「実にも清き流れかな、流れの向うに聳ゆる高山は何処の山にて候ぞ」、大膳「彼は
阿芙利山にて候」、義意「其後ろに両つ並びて立ちたるは」、大膳「南なるは塔が嶽、北
なるは丹沢山、其復後ろに茂れる森の見え候は、昔坂田の金時が出でたりと申す金時嶺に
て候」、義意「アレ不思議なる鳥の啼くものかな、彼の鳥の声を聞く時は蓑笠欲しいと啼
く如し、是は何と申す鳥なるぞ」、大膳「それこそ此山の名物なる雨乞鳥にて候、此鳥の
啼く声は誰人が聴きても蓑笠欲しいと申すなり、其声山に啼渡れば、遠からぬ内に必ず雨
の降り候、さるに依って雨乞鳥とは申すなり」、義意「処変れば不思議の事もあるものか
な、此辺りは人里遠き深山なるに、斯る庵室に住居せし隠者とはそも何者なるぞ」、大膳
「其隠者こそ物の不思議にて候、何処の人とも知らず、復何時此山に来りしとも覚えず、
何時の程にか此処に庵室を造り、唯一人風月を友として暫く此に住みけるが、常に出没極
り無く、里人も確と其顔を見たるものは候わず、然るに先頃山を出てより最早長く帰らざ
れば、必ず余所の山に移りしなるべし、隠者なるか仙人なるか、里人も不思議に思い候」、
義意「させる高士の住居ならば、断りも無く我等主従が汚さんこと心無し、もし隠者の帰
り来らば何と言訳致すべき」、大膳「イヤ其事を案じ給うに及ばず、此山は昔より厚木の
領内にして、乃ち某が支配する処なれば隠者をこそ咎め申すべし」、義意「人な咎めそ、
我こそは隠者の此に帰るまで留守をば守り申すべし」と重氏を従えて庵室の内に入り給う、
跡より来れる小桜姫は忍んで柴の戸に立寄れり、