45 水仕の業(女の役)

 厚木大膳の計らいにて、荒次郎主従は鳶尾山の庵室に入りにけり、住み荒したる家なが
ら人里遠き深山の奥、目を揚ぐれば青嵐峰に滴って能く塵俗の気を洗い、耳を峙つれば清
渓垣を繞って自ら潺湲の声を成す、山は高し、足に洞口の雲を踏み、家は静なり、幽に哀
猿の叫ぶを聞く、「如何に左衛門、斯る庵室に住居すれば、心は自ら仙境に在る如し、古
人の歌にも山里は物の淋しき事こそあれ、世のうきよりは住みよかりけると申せしが、今
更思えば山こそ里に勝りつらん、一国一城の主となりて槿花一日の栄華に誇らんより、此
江山を我物として風月に遊ばんこそ人生の楽みなれ、さりながら今日よりは我等主従の外
に人も無し、風月の楽みも薪水の苦みも苦楽寝食を共にするは唯汝と我とのみ、我は是よ
り弓箭を携え山奥に分入り、鳥獣を射落して午餉の料となすべきなり、汝は庵室を守って
水仕の用意を為し置候え」、重氏「畏って候、某は此谷川の水を汲み、彼の山蔭の薪を拾
い、馴れぬ業ながら水仕の用意を仕るべく候」、荒次郎打笑い「百万の敵と戦うは易かる
べきが水仕の業は難儀ならん、我も今日より猟人の獲物無ければ面目無し、いで奥山に分
け入って飛ぶ鳥・走しる獣を猟らん」と弓矢を携え庵室を立出でける、先程より柴の扉に
立寄りて、中の様子を窺い居たる小桜姫は今名乗り出でんかと思いしが、荒次郎の心測り
難ければ、様こそあれと身を立木の後ろに潜め、荒次郎が遙に遠く行き過きたる頃を待ち、
独り庵室の中に立入りて左衛門重氏を尋ねたり、重氏は今谷に降り多くの薪を給い取り、
小脇に抱えて帰り来りけるが、小桜姫の姿を眺め、「やあ、姫君には如何にして此庵室へ
は来り給いし」、小桜姫「妾こそ今は末広売、其末広を売る為には山の奥へも参るなり、
それよりも左衛門どの、御身等主従が国を離れて唯二人、斯る処に来給いしは如何なる子
細か、早く其謂れを物語り候え」、重氏「それを物語るも想えば口惜しき限りなり、此頃
我君讒者の言に罹り給い、御父道寸公の御勘気を受けさせられ、某と唯二人俄に国を御立
退あって思わぬ旅路に迷い出で給いて候」、小桜姫「聞くもうたてき物語かな、荒次郎君
ほどの英雄を国より出し給うこと、三浦家の弓矢の衰えとなり申さんに、実に口惜しき次
第なり、さりとては左衛門どの、御身等主従が先に厚木大膳の家に在りながら、何とて妾
に一ことも知らせ給わぬ、末広舞を奏し、恵みの品を賜わりしほどなれば、妾を知らぬと
は申されまじ、知りつヽ余所に看過すは妾を敵人の娘と思い給いてか、それとも外に子細
の候か」、重氏「イヤ其事を悪しくな思い給いそ、某度々我君に申して姫君に御対面あれ
と勧め参らせしが、我君人目を憚り給い、大膳の家にては御許し無し、さりながら此は人
里を遠く離れたれば、誰に憚ることも候わず、程無く我君も御帰りにて候わん、緩々御対
面あって積る御物語を召され候え」、小桜姫「あら嬉しや、此上ともに左衛門どのの計ら
いを頼み申すなり、荒次郎の君の御許しあらば妾は永く此に留まり、御身を助けて我君に
仕え申すべし、水仕の業は女の役目、いざ其薪を妾に渡され候え」と負いたる笈を下に卸
し、笹の小枝を投げ捨てヽ竈に向うも女人の嗜み、重氏は其心を察し「御痛わしくも亦頼
もしく覚え候、扨姫君には何とて今迄末広売となり給いて斯る処に在します、未だ種久殿
の御行方は知れ難く候か」、小桜姫「さあ其行方の知れざればこそ今迄此辺りに迷いしな
り、末広売となりしは世渡りの為、其末広の功徳に依て後に好き事あるべしと、人の言葉
に偽り無く、此にて御身等主従に遇い申せしこと、実に此世ならぬ契りなり」と語る折か
ら獲物提げ、柴の扉を押開いて外より入来る荒次郎義意「やあ左衛門、それに女の姿の見
ゆるは何者なるぞ」、重氏走り出で「是は末広売にて候」