52 幼き人(誰人にや)

 左衛門重氏小桜姫の前に進み「姫君には疾く此に立せ給うか」、小桜姫「さればなり、
今日も我君の御留守と思い、常日の如く飯を持ちて参りたるが、庵室の内に人声の聞ゆる
より暫く此に彳みて中の様子を立聴したり」、重氏「然らば只今の物語、庵室の主人が我
君の臣下となり候も」、小桜姫「聞いて嬉しき早雲攻めの御企て、もし其時節到来せば不
束ながら妾も亦一方の大将を承り、小田原城に攻め入って早雲の細首打落さん、もし其時
に到り我君の御許し無かりせば、妾は雑兵に身を窶しても御身の陣に紛れ敵中へ割って入
り、思う敵と闘って花々しく討死せん、何事も重氏どの、御身を頼み参らすれば、好きに
執成し給われ」と今にも時節の来る心地、重氏も思いは同じ「其時に相成らば某必ず我君
に申して、姫君を晴の奥方となし参らせん、我君とて固より君の心を知り給えば、其時こ
そ御許しなき事は候まじ、今暫く忍び給え、時節は遠からずして来るべし」と慰むる言葉
に、小桜姫は打悦び「然らば今日は此飯を此にて渡し参らせん、明日我君が山狩に出で給
う頃を測り再び参り候わめ、重氏どの、さらば何分頼み申す」と笈を開き、飯櫃を渡して
麓へこそは降りける、折しも麓の方より年の頃十二三とも見ゆる幼き人の唯一人、綾菅笠
を被り、竹の杖に縋り、足痛気なる有様にてヨロヨロとして登り来る、時は今熱からねど
も顔より流るヽ汗を拭い、さも疲れたる其体にて石に躓き、木の根に倒れ、又起き上って
立休らい、杖を力に峰の方を眺むれば、雲畳々として行手の道も知れ難し、幼き人はホッ
と一息して物悲し気なる体なれば、小桜姫これを見て哀れに思い「コレのう幼き若君、御
身は何用あって此山に登り給う、山には人もあらざるに、何を尋ねて行末の白雲にまでも
分入り給うか」、幼き人力を失い「ナニ此山に人無しとか、我は尋ぬるものある身なり、
人無ければ登りても何かせん、イヤイヤ物を案ずるに、是は我が尋ぬる人の妄に世の人に
逢い給わねば、お許の知らぬと覚えたり、如何に物売る女、此山は正しく鳶尾山か」、小
桜姫「されば鳶尾山に相違無し、此山にて人を尋ね給うとは、抑何人を尋ねらるるか、山
の様子は妾こそ委しく知りて候」、幼き人「然らばお許に尋ね申さん、此山の奥に年若き
武夫と年老たる従者の、唯二人して世を忍び居る所あるか」、小桜姫「さあ其事は俄に答
え難し、御身は如何なる人にして其主従を尋ね給う、固より世を忍ぶ人達なれば、告て好
きやら悪きやら、御身の上より語り給え」、斯る言葉に幼き人は力を得「我は三浦の領主
道寸義同が二男虎王丸と申すもの、尋ね参らするは我が兄上、荒次郎義意とて武名関東に
隠れ無き御大将」、小桜姫打驚き「扨は御身が虎王どのか」、虎王丸「そう云うお許は何
者ぞ」、小桜姫「イヤ妾は末広を売る女にて候、荒次郎君の御隠家、初めは隠し候えども、
御兄弟とあらば苦しかるまじ、妾が御案内申して其隠家へ伴わん、いざ此方へ参られよ」
と幼き人の手を執っていと懇に誘えば、虎王丸も打悦び「不思議に情けある女かな、お許
は我が兄上を知りたるか」、小桜姫「知るも知らぬもあらばこそ、其人故に日毎の登山、
妾は荒次郎の君の御隠家へ物を売る女にて候、扨も御身は未だ幼き身を以て、供をも連れ
ず唯一人何とて此山へは尋ね来り給いしぞ」、虎王丸「それには子細のある事なり、お許
が知るべき所ならず、まだ御隠家へは程遠きか」、小桜姫「さまでに遠き事は無し、アレ
御覧ぜよ、此谷川の水上に薄き煙の立上るは荒次郎の君の御隠家にて候、疲れを忍んで今
暫く急ぎ給え」、「言うにや及ぶ」と虎王丸足の痛さも打忘れ、山奥望んで進み行く其有
様のしおらしや、