55 手練の槍(惜しきもの)

 「如何に虎王どの、是なる茅屋こそ妾の住居にて候、見苦しくもそと御入候え」、虎王
丸「斯るいぶせき小屋に住で、お許は何を商売うものぞ」、小桜姫「妾は末広を売るもの
なれども、荒次郎君の庵室へは日毎に飯を運び、又は様々の物を調え候」、虎王丸「扨は
水仕の女なるか」、小桜姫「オーそれよ、水仕の業も縫針も衣を洗い薪を拾い、習わぬ浮
世の賤しき手業も思う殿御の為なれば、何とて苦しかるべき、時に御身は遙々の旅路を来
給いて、さぞ物欲しゅう在すらん、斯る茅屋に参らせんものも無く候えども、時の物を聞
し召され候え」、虎王丸「我身が喰べんもの、此家に在り候か」、小桜姫「御身が日頃召
上るものは何々にて候ぞ」、虎王丸「先ず新井の城の名物は、三崎の鯛に尉が島の鮑、烏
賊に鰹に鰺と鯖、其外色々の新しき魚絶ゆる事無し」、小桜姫「オホヽそれは浜辺の事に
こそ候え、是は海遠き山家なれば鯛も鮑もあらばこそ、されども折角の御望み故、此前な
る中津川の急流にて鮮しき魚を取り申すべし、時の御慰みに来りて御覧候え」と細き竹の
尖りたるを携え、先に立て川岸に赴く、虎王丸も興ある事に思い、跡より行きて見物す、
小桜姫四辺りを打廻り「御覧候え、あの水底の岩陰に泳ぐ魚こそ山家の名物たる嘉魚と申
す魚にて候、妾が突いて取り申すべし」と水中を望んで狙いを定め、武術の手練を以て竹
の槍を繰り出せば、物の美事に魚の真中突通し、其侭岸へ跳ね揚げたり、虎王丸笑壺に入
り「こは面白き魚取る業かな、竹の槍を以て斯る急流の魚を突くとは余程の手練なくて叶
わず、斯る手練を以て大身の槍を使いなば、戦場にて敵を突かんこと此魚よりも易かるべ
きに、惜可手練を無にする事よ」と流石名家の若君なれば、心を武辺に寄せ給う、小桜姫
打笑い「槍なぞとは聞くも怖ろし、是は山家の手業にて候、扨此魚を炙りて参らせ申すべ
し、御身は今迄に御覧じたる事の候か」、虎王丸「イヤ我が三浦は山浅ければ、斯る魚を
見たる事なし、山の流れに嘉魚と申すものヽ候よ」、小桜姫「さればなり、是より山奥に
参れば厥魚と申して味好き魚の候、明日は御身の為に厥魚を取りて参らすべし、馴れぬ内
こそ不自由に思し召されんが、馴るれば同じ人住む里、山家も面白きことの候」と物語り
つヽ家に入り、魚を炙りて虎王丸に進めたり、虎王丸は餓えたる時の珍味ぞと、悦んで其
魚を食し「見ればお許は唯一人、此家に住居する体なるが、父母とてはあらざるか」、小
桜姫「その父母のあるほどなれば一人は此に住まじものを」、虎王丸「扨も哀れの身の上
や、我身世に出でなば今日の恩賞に重く褒美を取らすべし」、小桜姫「ナニ御褒美の要る
べきぞ、左様の心遣いし給わで何事も遠慮なく仰せられよ、固より不自由の住居ながら、
妾の届かん程は御身の御世話申すべし」と実意の言葉は幼き身にも浸渡り「如何にも情あ
る女かな、其志忘れはせじ、してお許の名を何と申す」、小桜姫「妾は名も無き末広売、
唯狂女と召され候え」、虎王丸「此辺には狂女と申す名の候か、我故郷にて狂女と申せば
物狂わしき女の事を申すなれ」、小桜姫「幼き人とて面白き事を仰せある、唯何とも無く
狂女と召れ候え」、斯る物語を為す処に、表より入来る菊名左衛門重氏「如何に姫君、虎
王どのを預かり給いてさぞ御忙しく候らん、某我君の事を初声太郎に頼み、姫君の御手伝
いを申さん為、是まで参りたり、御用あらば仰せられ候え」と述ぶる言葉の慇懃さ、虎王
丸怪しんで振返り「あいや左衛門重氏、此女を指して姫君と申すはそも如何なる姫君ぞ」、
重氏前に進み寄り「オー是こそ御身が尋ね給う姉君小桜姫にて候よ」