56 深山の雪(解くる時節)

 「ナニ姉君にて候か」と虎王丸俄に飛退り「早くより存じ参らせなば無礼は致すまじき
に、何卒御許し下され」と両手を突いて打詫ぶる心遣いのしおらしき、小桜姫側へ寄り「イ
ヤさのみに心を置き給うな、矢張り末広売の女と心得て、何事も遠慮無く申させ給え」、
虎王丸「コハ勿体無き仰せかな、是よりは我身こそ心を尽して姉上に仕え奉るべし、弟と
思し召されて何事も仰せ付けられ候え、唯不審なるは兄上と姉上が一つ処に住み給わで、
尾上隔てし鳶尾山、一人は峰に一人は麓にと、如何なれば別れ別れに住み給う」、小桜姫
「さあ其事を深くな問い給いそ、妾は唯の末広売、御身に姉上なぞと呼ばれなば、恥かし
き限りにて候、再び姉上と呼び給うな」、虎王丸「イヤ此事は我身が心より出でたるに非
ず、亡き母の遺言に姉上を尋ねて力ともなし参らせよと仰せあり、母君の許し給いし姉上
なれば、憚る事の候べき」、小桜姫頭を低れ「母君が許し給うとも、荒次郎の君の御許し
無ければ、妾は矢っ張り末広売の狂女なり」、虎王丸「ナニ兄上の御許し無きと仰せある
か、今迄はさもあるべし、さりながら我身母の遺言を伝えたれば、兄上も母君の仰せに負
き給うまじ、我身是より兄上の許へ参り、姉上と共に住み給うべきよし子細に聞え上げ候
べし、如何に左衛門、汝は何と思うぞ」、菊名左衛門も其言葉を悦び「それこそ虎王どの
ヽ御志、世に頼もしく覚え候、某等一同の願いも其事に外ならず、あわれ御身の力を以て
我君の心を解き参らせ給え」と是も勧むる忠義の言葉、小桜姫頭を振り「積る思いの深山
の雪は春ならで解くる事なし、我君の御心も今に解くべき時節やあらん、先ず此侭に虎王
どのを預り申して我君の影とも見奉るべし、如何に虎王どの、御身は道寸公を父とし給い、
荒次郎の君を兄とし給えば、定めて武勇の嗜みも浅からざるべし、遠からぬ内に我君と北
条早雲との合戦あるべきなれば、其時は妾御身を伴い、晴の戦場に出陣して初陣の功名を
立てさせ参らせん」、虎王「聞くも嬉しき御物語かな、姉上の御武勇は世の噂にて聞き伝
え候、未熟なる我身なれば何卒今日より武術を御仕込み下されて、物の役に立たせ給え」
と喜び勇む体なれば、小桜姫立上り「教ゆるとても無けれども、是も御身への志なり、先
ず手並を見申さん、いで其薪の枝を執り妾に打って掛られよ」と其身も同じく枝を持ち、
身構えなして待ちかけたり、虎王丸勇み立ち「然らば御免候え」と手頃の枝を拾い執り、
小桜姫に打ってかヽる、小桜姫丁々と受流し、良暫く打合いけるが「左衛門殿見られよ、
流石は我君の御兄弟なり、侮り難き此手並は幼き人に似もやらず、是より暫く武術を励ま
ば、早雲攻めの合戦に功名せんこと疑い無し」、左衛門「扨こそ姫君の御仕込みを以て、
虎王どのに功名を立てさせ給いなば、我君も必ず御悦びあらん、解くるに易き春の雪、待
つべき時節とは其事に候」と共に心を合せて虎王丸を介抱なしける、斯くて後虎王丸は小
桜姫を姉上よと頻に慕い敬いて、明暮武術を励みければ、小桜姫も頼もしき弟と寵愛し、
心を尽して教えけるに、或日此家の前に「末広を召されよ、縁結びの末広を召されよ」と
音なう声の聞えたり、小桜姫打笑い「末広売の家に末広売の来るとは珍しヽ、何者なるや」
と立出で見給えば、花水川にて逢いし末広売の夫婦なり、「オヽ御許等は妾が師」、夫婦
「爾云う御身は其時の姫君よな、我等二人は御身をこそ尋ねて是まで参りしなり」、小桜
姫「妾を尋ね来りしとは何処より来りしぞ、先ず内に入って其子細を物語り候え」と夫婦
を内に迎えたり、