59 彼の城門(破らんもの)

 小桜姫に捕えられたる末広売は声を揚げ「姫君の御憤りはさる事ながら、まこと種久殿
は小田原城に坐すなり、某が一の宮の辺りと申せしは、姫君を欺かん為にはあらず、此頃
三浦荒次郎鳶尾山に隠れ居るよし聞き候えば、種久殿の御座所を三浦家の人に知られなば
悪しかりなんと、態と一の宮と申せしなり、種久殿は疾くより小田原城に在って、早雲公
の客分となり給う間、姫君にも疾く小田原城へ入り給え」と言訳なせども、小桜姫容易に
心解けず「イヤ小田原城には俄に入り難し、汝が申す所は偽りにて、妾を釣寄ん為なるべ
し」、末広売「何とてさまで疑い給う、種久殿より直の御文さえあるものを、又姫君は北
条家の敵にてもあらざるに、何の子細あって小田原城へ誘き寄せ参らせん、アレアレ向う
の松原より百騎計りの兵を引きて此処へ馳せ来り給うは正しく御父種久殿なり、今は疑い
給うべからず」と語る折しも、楽岩寺種久馬上にて此処に馳せ来り「珍しや小桜姫、其方
を迎えん為に我身も是まで出張致せり、早く小田原城へ入り候え、やあ何とて多目権平を
捕えしぞ」、小桜姫仰ぎ見て「扨は全く父君こそ小田原城に居給いしか、此末広売は先に
妾を欺いて、父君厚木に居給うと云い、今復一の宮こそ御座所と申しながら、斯る処へ連
れ来りし故、引執えて詮議致したり」、種久「それには色々子細あり、必ず末広売を怨む
べからず、其末広売こそ北条早雲殿が家臣多目権平長康と申すもの、今は疑うことなく我
身と共に小田原城へ参るべし」と自ら先に立って旧の道へ引返す、小桜姫は今更詮方なし、
父の在家の知れたるは嬉しけれども小田原城とは心掛り、もし荒次郎君の小田原を攻め給
う時あらば、何とて小田原城に入り給いしか、何とて早雲の客分とは成り給いしか、我身
が先の心には、父君に勧めて荒次郎君と和睦を計らい、荒次郎君が早雲征伐の軍を起し給
う時は、我等親子は御味方して一臂の力を添えんと思いしに、何事も斯く仇となり、良人
が敵の其城へ迎い取るヽ身の悲しさ、イヤイヤ思い返せば父君とて一時の計略に北条家を
頼み給いしなるべし、予て早雲は浪人者よ国盗人よと罵り給いし父君なれば、よも心より
早雲を信じ給うことあるべからず、こは城に入って能く父君の心を伺い、様子に依らば小
田原城立退きの儀を勧め参らすべし、あな心苦しき折柄なりと、独り思いを凝しつヽ乗物
の中にて沈吟せり、父種久は小桜姫の心を知らず、死せしと思いし我が娘の恙無き顔を見
て心の悦び斜めならず、此武勇絶倫の娘を得しは百万の味方を得たるよりも心強し、此上
は早く計議を廻らし、三浦道寸を滅ぼして日頃の鬱憤を晴さばやと、胸中の一念は唯三浦
征伐の外あらず、去る程に人々は小田原城に着きにけり、小桜姫乗物の中より熟々城の様
子を眺め「実に厳しき要害かな、後ろは箱根の天険を帯び、前は相模灘の荒海を控え、陸
よりも海よりも容易に敵の攻め寄せ得べしとは思われ難し、旧の城主大森信濃守の時だに
も、早雲その力攻めになし難きを知って、山狩の計略に事寄せ、欺いて此城を奪いしほど
なり、然るに今は知略勝れし早雲が立籠るなれば、一朝これを攻め落さんこと容易ならず、
荒次郎の君もし早雲征伐の兵を起し給わば、何れの道より此城に攻め掛り給うべき、大手
・搦手・本丸・二の丸・外郭の要害なんど、迚も力攻めにて破るべしとも見えず、さりな
がら荒次郎君の事なれば、これを攻め落すべき計略もあらん、何卒我身も其軍に加わり、
虎王丸を引連れ、彼の大手の城門より敵兵を破って城中に乗入らんものを」と竊に思案な
しける内、乗物はハヤ城中の本丸に着きにけり、