58 小田原城(彼にこそ)

 小桜姫重氏を顧み「如何に左衛門殿、日頃尋ぬる父の行方知れたれば、これより父の許
へ参らんと存ずるなり、妾も父の様子に依りて復此家に帰るべし」と余儀なく頼むに、重
氏打頷き「心得て候、御父君の在家知れ給うとはさぞ御本懐に候わん、御不在は某が確と
守り申すべければ、心置き無く父君に逢い給え、して種久殿は何処に渡らせ給うか」、小
桜姫「是より程遠からぬ一の宮の辺りと承る、そと一走りに行きて父に面会致すべし」、
重氏「一の宮なれば程近し、何事に就けても便り好く候、御如才はあるまじけれど、もし
父君に逢い給わば昔の親みを思し召して、我君の御助けともなり給わん様子細に聞え上げ
給うべし」、小桜姫「言うにや及ぶ、妾も父を説き、我君と御和睦あって共に大事を計ら
わん様懇ろに勧め申すべし」、重氏「第一に目指すは小田原城」、小桜姫「其事を軽々し
く漏らし給うな、委細は妾も心得たり、のう虎王どの、妾が不在の間左衛門殿を頼み、お
となしくして待ち給えよ、武術の稽古を怠り給うな、今に合戦始まらば小さき物の具揃え
て御身を丈なる駒に乗せ、妾と共に出陣の用意をゆめゆめ忘れ給うな、いざさらば末広売
の夫婦、妾を父君の許へ案内せよ」と其侭表に立出で給う、看れば家の彼方に一挺の美し
き乗物を据え、警固の武士三十余人列を正しく其傍に控えたり、小桜姫不審に思い、是は
何ぞと問い給えば、末広売前に進み「是こそ姫君を御迎えの為にて候、いざ彼の乗物に召
され候え」、小桜姫「扨は父君にも斯る人数を持ち給うか、昔に変らぬ御勢い、看るも嬉
しき事どもなり」と何心無く其乗物に入り給う、末広売それと合図を為せば、警固の武士
立上り、乗物の前後左右を守護し、勢い込んで此処を立出でたり、道にて過ぐる厚木の町、
昨日までも今日までも末広を召されよ、縁結びの末広を召されよと人の門辺に立って笹の
小枝を打振りしが、今は美しき乗物に乗り、警固の武士に囲まれて、其町々を過ぐるなれ
ば、小桜姫も面羞く人に顔見らるヽの厭わしさに乗物の戸を閉じ、敢て外面を見給わず、
其内乗物は厚木を離れ、天神が原を打過ぎて一の宮の渡しをも打渡りぬ、小桜姫は最早此
辺りにて乗物を卸すならんと待ち給うに、さは無くじて乗物は尚一散に南の方へ走り行く、
如何に一の宮の里広しと雖も、よも是ほどに長きことあるべからずと、小桜姫乗物の戸を
開いて四辺の景色を眺め給うに、我が行く道は阿芙利山の麓なり、向うに見ゆる箱根山・
二子山松原越えて遙に海の見えたるは、問わでも知るべき相模灘、其海を前に控え、箱根
山を後ろに負て要害厳しき一城の見えけるは、是ぞ北条早雲が小田原の城と覚えたり、小
桜姫愈々怪み「これのう武士ども、我が父君の御座所はまだ是より程遠く候か」と尋ね給
う、末広売前に出で「イヤそれほどに遠き事は候わず、向うに見ゆる彼の城こそ種久殿の
御座所にて候」、小桜姫「向うに見ゆる彼の城は北条早雲が小田原城ならずや」、末広売
「さん候、その小田原城にこそ種久殿は坐すなり」、斯くと聞くより小桜姫、奮然として
乗物より躍り出で、矢庭に末広売の襟髪を執って押え「奇怪なり末広売、花水川にて逢い
し時より汝等夫婦を怪しきものと思いしに、先にも妾を欺いて、父君厚木に坐すと申し、
今は復一の宮の辺りと偽って、妾を小田原城に誘き寄せんとすること、察するに北条早雲
が計略にて、妾を執えんとなす為か、其儀ならば汝等を一々此にて踏殺して呉ん」と女な
がら大勇の小桜姫、鬢髪逆立て怒り給う、其御気色の恐ろしさは鬼神も面を向くべき様ぞ
無し、