62 三浦征伐(出陣せよ)

  関東名代の勇婦小桜姫が如何なる業をなして其力量を現すにやと早雲始め一座の面々、
興ある事に思いて眺むるに、小桜姫は庭に降り暫く四辺を見廻しけるが、やがて縁端に近
寄り目方七八十貫余もあらんと覚しき石の手水鉢に手を掛け、ヤッと云って根より引抜き
中に水を湛えたるまヽ両手に抱えて庭の内を悠々と歩み廻り、良あって旧の処へ持ち来り、
其侭前の如く据え置きて徐々と我が座に立戻りぬ、其間神色自若としてさまで骨折りたる
様子も見えず、諸士一同其力の測り知り難きに驚けり、早雲も感歎し「実にや稀代の力量
かな、御身の如き勇婦が当城に入られしこと百万の味方を得たる心地ぞする、三浦征伐の
其時には父君と共に先陣に進んで抜群の功名を立て給え、如何に種久殿、某御身の頼みを
受けし以来、日夜心を苦しめて道寸を滅すべき計略を工夫せしが、彼も名に負う当国累代
の大族なり、其上荒次郎義意如き勇将が道寸を助けて武威を遠近に振う間は生中に手を下
し難し、然るに今や道寸荒次郎を追退け、三浦家の武勇も大に衰えたるよしなれば、此図
を外さず大軍を起して三浦領に攻め入り申さん、御身も日頃の無念を晴し給うは此時なり、
御息女小桜どのと共に出陣の用意を致されよ」、斯くと聞いて種久は悦びの色あり、小桜
姫は憂いの色あり、種久大に勇み立ち「某が日夜肝胆を砕くも唯其事にて候、あわれ早雲
殿の力を以て我が怨を晴し給わば、某は此合戦に討死致すも敢て悔む所は候わず、何時に
てもあれ道寸攻めの兵を起し給わば、某親子先陣を承り三浦領に攻入って怨み累なる三浦
勢を微塵に破り申すべし、のう小桜、其方も其時は日頃の武勇を顕わし、道寸が旗本まで
も攻入って運好くば老の細首を打ち落し候え」と姫を顧みていと嬉し気に申しける、姫は
何とて嬉しかるべき、今早雲の味方して三浦勢と戦わば、尚更荒次郎の君に申訳無し、是
は合戦始まるとも我身は戦場に出でざるこそ好けれと心を定め「父上の仰せには候えども
早雲殿には武勇の士卒に乏しからず、三浦勢と戦うに事欠き給うことは候まじ、然るに妾
が女の身として戦場に立入りなば、早雲殿こそ兵の寡きより女人を語らい戦場に出したり
と敵の者に笑われ申すべし、妾とて修羅の巷に筋も無き腕立致さんことは好ましからず、
されば此度は父上の御不在を守り、もし味方の合戦難儀ならん時は及ばずながら援兵とし
て駈付申し候わん」と拒む心の苦しさは、人こそ知らね血を吐く如き思いなり、此一言に
父種久も早雲も共に興の醒めたる心地せしが、早雲は智将だけに是には何か子細あるべし
と心付き「小桜どの、御身が戦場に出られしとて決して某が名折にはならず、却て陣中の
勇気を励まし味方に取りて此上無き援けなり、それも外々に向って合戦するならば、御身
の出陣は乞わざるべきが、是は御身の父君種久殿に頼まれての三浦征伐なり、御身も父君
の御無念を御存知あらば真先駈けて御出陣あるべきに、某へ対しての御遠慮とは心得難し、
もし御身の出陣あって敵の者早雲を笑うとならば、過ぎつる花水川の対陣に御身は手勢を
引て三浦道寸父子を援け給いしにあらずや、其時何者か三浦家を罵り、兵の寡き故に女人
の援けを乞いたりと申せしものヽありたるか」と進退ならぬ智将の一言、小桜姫再び言い
解くべき便も無し、父種久声を励まし「如何にも早雲殿の仰せの如く其方の拒むは謂れ無
し、道寸が為には城を落とされ領地を奪われ、此の無念骨髄に入りたるぞよ、其方は父の
無念を知らざるか」と声励まして詰め寄する、小桜詮方無し「然らば出陣仕らん」、種久
「オーそれでこそ我娘なり、出陣の用意には其方が手馴れし十三貫目の大薙刀を作らしめ
ん」と悦び勇みつヽ早雲の前を退ぞきて、我が館へこそ帰りける、