65 帰国の勧め(イヤじゃ)

 蘆の枯葉に風戦ぐ中津川の川岸に、竹の柄の槍を携え流れに臨んで魚や来れと待ち給う
三浦の若君虎王丸、その御姿を見奉れば本国に在し時と事変り、住居馴たる里の子の賤し
き御装いを成し給えども、何処やら気高き御骨柄は流石荒次郎君の弟なりと初声太郎行重
心に感じて其傍に来り「如何に若君、竹の槍を携えて何事を為し給う」、虎王丸振返り「我
身は姉上の教を守り、槍の稽古に水中の魚を突かんとする也、行重こそ旅の装束して何処
に参るぞ」、行重「さん候、某荒次郎君の仰せを承り、若君の御供申して是より三浦表へ
参らん為、只今御迎いに参り候」、虎王丸驚くこと一方ならず、「我身を連れて三浦へ帰
れとはまことに兄上の仰せなるか」、行重「さればにて候、此頃北条家一の宮に城を築き、
備を厳重になし候は、此厚木辺りを攻め取らん為なるか、それとも我君が此山に御座ある
を知って御武勇に怖れ竊に立てたるか、何れにもせよ油断ならぬ世の有様にて候えば、若
君を独り此辺りに置き参らせんこと心許なし、それのみならず御父道寸公が如何に心を苦
しめて在すらん、さればこそ今の内に若君を三浦へ送り帰して道寸公の御心を安め参らせ
よと荒次郎君の御諚にて候、某と共に参り給え」、虎王丸俄に身を退け「是は思いも寄ら
ぬ兄上の御諚かな、我身一旦国を出し上は、兄上を旧の如くに家の世継となし参らせずば
再び帰らぬ覚悟なり、仮令兄上の仰せなりとも此事計りは従うまじ」、行重「それは若君
の御心得違いにて候、今荒次郎君永く若君を此に留め置き給わば、愈々道寸公の御憤りを
増して再び御仲の直らんことも望み難し、それよりも若君一旦帰り給いて道寸公に荒次郎
君の御誤り無きよしを具に聞え上げ給いなば、道寸公の御心も解くる事候わん、某も若君
を御伴い申す上は在城の諸臣と謀り、死を以て道寸公を諫め奉る所存なり、兄君の御為を
思し召して唯此侭に帰り給え」、虎王丸沈吟し「イヤ帰るまじ、我身が御側に在りては父
君の御寵愛日に増して、迚も兄上を許し給うことあるべからず、申すも苦しき事ながら、
我身は国に在って牧の方の我儘を見聞くも憂いの種なるぞ、行重が参らば虎王丸は旅路に
て死にたりと父君に申上よ、兄上との御仲を直し参らせんには、それに過ぎたる良計あら
じ、如何に左衛門、汝は左様に思わずや」と菊名重氏を顧み給う、重氏も若君の御言葉に
感じて竊に涙を流せしが、弱る心を見せまじと態と声を励まし「若君の仰せはさる事なが
ら、今荒次郎君の御言葉に従い給わずして、兄君が兄弟の縁を切ると仰せあらば如何にな
し給う」、虎王丸「我身兄上に捨てられなば、姉上小桜姫を力と頼み参らせて、早雲攻め
の合戦に潔く討死なすべきなり、我身が死なば其跡にて父君も兄上も御仲らいの昔に帰り、
其時我身の心を想い出されて哀れとも思し召し給うらん、此上は唯姉上を尋ね参らすべし、
行重再び帰国の事を申す勿れ」と更に動くべき景色無し、行重・重氏当惑し頭を聚て相談
しけるが、兎にも角にも荒次郎君の仰せなり、虎王丸を宥め賺して一旦本国へ連れ申さず
ばなるまじと再び其前に来り、先ず麓の住居へ連帰らんとせしに、虎王丸蒼蠅しと思いけ
ん、二人の隙を窺い俄に身を転じて林の中に駆入り、其侭姿を隠し給う、両人大に驚き「の
う若君よ、虎王君よ」と林の中に分入て、彼方此方を索むれども、聞ゆるものは木枯の風、
見ゆるものは落葉谷の錦、折柄空を鳴渡る雁金の声も物淋し、虎王丸は両人に隠れて林の
中を潜り抜け、やがて道も無き迫りに来りけるが、何処より現れけん末広売の多目権平、
俄に其前に進み寄り「三浦家の若君よ、小桜姫よりの御使いにて候」と懐中より一通の玉
章を取出したり、