67 勿体無し(告げ申さん)

 木の葉散る野辺の秋風身に浸みて、虎王丸俄に後ろを顧み給えば幽に聞ゆる兄上の御声、
扨は我身を尋ねて是まで追来り給いしか、勿体なしや、忝なしや、去ながら我身が今兄上
を振捨て姉上の御許へ参らんとするも、唯兄上の御身を思えばなり、我身国に帰らば父君
再び兄上を世継となし給うまじ、三浦の御家を兄上に継せ参らせんと我身は独り身を退く、
是も浮世の義理ぞかし、兄上許したび給えと心の中に謝し、斯て末広売に向い給いて「の
う後より追手の掛りしぞや、此にて見咎められなば姉上の許へ参り難し、兎も角も我身を
隠し候え」、末広売「心得申して候、若君には暫く彼の岩蔭に身を潜め給うべし、追手の
人の参りなば、某好きに欺き、余所の道に向わせ申すべし、暫しの間忍び給え」と虎王丸
を岩蔭に隠し、其前に落葉を積で姿の人に見えぬ為、自ら其前に立休らう、斯る所に疾風
の如く馳来りたる荒次郎義意、末広売の姿を眺め、扨は虎王丸にてあらざりしと、竊に力
を落し「只今此辺へ十二三許なる幼き人の参らずや、そも汝は何者にて何の為に斯る処に
彳むぞ」と尋ね給う、末広売「某は物売る商人にて候、旅の疲れを休めて先程より此処に
彳み候が、幼き人には出合わず、今より以前に彼方の林を南の方へ馳て通りし人ありしが、
形の高く見えざりしは定めて幼き人ならん」、荒次郎「南の方へ馳去りしと申すか、是よ
り南は阿芙利山なるに、何処を当に馳去りつらん、のう商人、汝も此先にてもし幼き人に
逢わば、有無を言わせず中津川の辺まで連来れよ、褒美は望に取らするぞ、さらば南を尋
ねん」と狂う如くに馳出して南の方へ去り給う、跡にて虎王丸落葉の中より涙ながらに這
出し「あヽ勿体無き兄上の御心遣、斯程まで我身を案じ給うなるに欺き奉らんは罪深し、
そと一走り追付き申し、兄上に委細を語り、晴て姉上の御許へ参らばや、汝は此にて相待
ち候え」と恩愛の情に幼き心も動きつヽ、末広売を残して独り荒次郎の跡を追わんとす、
末広売打驚き、今子細を語られては一大事と其前に立塞り「こは若君には先程の言葉を忘
れ給うか、小桜姫の仰せにも、人に知らせずそと若君を迎え奉れと御事なるに、若君にも
其心して参り給え、人に知らせて留められなば小桜姫が如何に慨き給うべき」、虎王丸「そ
れはさる事ながら、兄上の御心遣いを余所にして此侭姿を隠さんこと勿体なし、兄上と云
い姉上と申し、今こそ別れ別れに住み給えども末には結ぶ縁の綱、切れども切られぬ御仲
なれば、姉上の御病気故我身が参ると申しなば、爭か無理に止め給うべき」、末広売「と
は云えもしも引止め給わば若君は姉上を見捨て給うか」、虎王丸「イヤ見捨ては致さぬ、
如何に願うても必ず姉上の御許へ参るべし」、末広売「それほどに思し召さば唯此侭に参
り給え、小桜姫の父上種久殿は三浦家の敵ならずや、敵の許へ若君が行かるヽと聞かば、
誰かは留めぬものやある、それを察して小桜姫も竊に御身を呼ばれしなり、姫の言葉を御
用いなくば、姉上を見捨て給うに同じ、其儀ならば某唯一人姫の許へ帰り、若君虎王丸ど
のこそ姫を見捨て給いたりと御物語り申すべし、それにても尚人に告げたしと仰せらるヽ
か」、虎王丸はとつおいつ「さあそれならば兄上に済まずとも、暫し御暇を給わるべし、
早く姉上に逢わせてたべ」と力無く歩み給う、御有様ぞ痛わしき、