68 紅葉狩(此弓勢)

 時雨する稲荷の山の紅葉ばは青かりしより思い初めてき、それは風雅の人の心なるに、
是は関東の老雄北条早雲入道も軍機の暇に風月を楽しむの余裕ありけん、城中の客人楽岩
寺種久父子を誘い、箱根山明星が嶽に登りて山の紅葉の秋の色、錦染めなす風景を遊覧あ
りける、「如何に種久殿御覧候え、此山の秋の景色は余の山の眺めに異なり、五色の衣を
着けたる如くにて候、燃え立つ如き真紅の色は霜を帯びたる楓にて、其色黄なるは風の前
の落葉なり、青々として独り緑なるは松又は杉の類にて、流るヽ水の白布を晒すが如く、
岸に黒きは大岩小岩の横たわるにて候、御身の城下金沢辺りは海辺に近き事なれば、定め
て斯る山中とは秋の色も異り候わん」、種久「さん候、鳴呼がましくも金沢は西湖八景に
比らえし程の土地なれば、秋は天晴れ気朗に海も瑠璃色に済み渡りて、田の面に落つる雁
金さえ其声床しく聞え候、我等も国に在りし時は秋の眺めを一入に楽み候いしに、道寸め
に滅ぼされ、今は帰るに家も無く、御身が情の紅葉狩も目を挙ぐれば江山の異るあり、心
に済まぬは唯此事にて候」と亡国の恨み何れの時にか忘るべき、折しもあれ須雲川の川上
より狩人にや追われけん、一頭の大鹿谷を渡って此山の麓に馳来る、楽岩寺種久手早く弓
に矢を番え、兵と放てば過たず鹿の胴腹グサと射抜いて鹿は其場に斃れたり、早雲扇を揚
げて「世に美事なる種久殿の御弓勢よ」と称しけるに、種久遙に三浦の方を睨み「イヤ鹿
を射留むるは某が本望に非ず、今にもあれ三浦領に攻入て道寸入道を斯の如くに射落さば
や、それに就けて早雲殿、先に我が娘小桜姫が参りし時、今にも三浦征伐の兵を起し給う
様に仰せありしが、扨如何なれば今日まで御出陣の御沙汰は候わぬ、某は明ても暮ても唯
其事をのみ待ち候」と心に堪えぬ孤客の恨、早雲其心を察し遣り「御身の出陣を急がるヽ
はさる事ながら、道寸も大敵なれば無謀の軍を起し難し、さるに依て嫡男氏綱に命じ一の
宮に城を築かしめ根を固め、後を抑えて緩々三浦を征伐せん謀にて候、暫し御待ち候え、
今に氏綱より吉左右参り候わば、直に三浦攻の軍を起し候べし」と語る言葉の深き心を小
桜姫や察しけん、俄に早雲の前に進み「三浦の地は東に在り、一の宮は北に在り、然るに
三浦を攻めん為一の宮に城を築かるヽとはそも如何なる敵に備え給うぞ」、早雲屹と小桜
姫の気色を窺い「さればなり、当国厚木の辺には旧の小田原の城主大森信濃守が残党隠れ
居り、日夜当城の隙を窺い候えば、それに備えん為にて候」、小桜姫顔を揚げ「大森家の
残党はそれほど怖ろしきものにて候か」、早雲「残党は怖ろしからねど其残党を味方に付
けて当城を窺うものあらば、是ぞ由々しき大事なり」、小桜姫「扨は何者か小田原城を窺
うものありと思し召され候か」、早雲「イヤ窺うものあるか無きかは知らねども、良将は
治に居て乱を忘れざるの譬え、何事も唯用心に如くは無く候」と明けて言わぬは竊に小桜
姫の心を疑えばなり、折しも小田原の方より駒を駆って此処に馳せ来りしは、早雲が嫡子
新九郎氏綱なり、早雲心に待ち兼ねて「如何に氏綱、其方は一の宮より来りたるか」、氏
綱馬を降り「さればにて候、小田原城に参りて伺えば、方々には此山へ紅葉狩の御催しと
承り、某も遊楽の座を汚さん為是まで推参致し候」、早雲「秋と云えば何処も同じ色なる
が、一の宮の辺りは如何に」と心あり気に問いかけたり、