74 妻恋う(声すなり)

 見渡せば花も紅葉も無かりけり、落莫たる閑庭の景色を眺めて唯誰り、心からなる病の
床に人知れぬ思いを焦し給う楽岩寺家の御息女小桜姫、父は道寸を攻めて三浦に在り、良
人は早雲を窺って厚木に在り、味方勝てば良人の心の切なからんを察し、敵強ければ父の
無念の晴難きを悲しむ、何れにしても身一つを定め兼たる此合戦、初めは出陣を辞せんが
為に偽りの病を構えしも、今は思いに堪え兼て誠の病となるも憂し、荒次郎殿は未だ小田
原攻の兵を起し給わざるか、虎王丸は如何に我身の帰りを待侘てありつらんと深き思いに
沈み給う、折柄入来る北条家の二男小四郎氏時「小桜どの御病体は如何に渡らせ給う、今
日も氏時が御見舞に参り候」と心ありての親切も小桜姫は嬉しからず、「是は氏時どの、
当城の留守居たる御身を以て毎日妾の病を訪給う事、返す返すも憚り多し、此後は再び来
り給うな」、氏時「ナニ憚り多きこと候わん、毎日姫が御顔を見参すること某が上無き楽
みにて候、是を思えば姫の御病気にて戦場へ出陣あらぬこそ、某が身に取りて幸いなり、
心置きなく某に御用を申付け給え」と姫の美しき姿に見惚れて脇目も振らぬ其様子、姫は
心に憤り「御身も早雲殿の御二男ならずや、妾が出陣せぬを幸いとはそも何事を仰せらる
るぞ」、氏時「イヤさ、さのみ言葉を咎め給うな、秋ともなれば後ろの山に妻恋う鹿の声
すなり、御身の如き稀代の勇婦を誰かは恋しと思わざらん、姫の心だに定まらば、某父に
申して御身を宿の妻に申受けんと存ずるなり、必ず悪しく思い給いそ」、小桜姫屹と両眼
を開張き「是は思いも寄らぬ戯れ事を仰せらるヽものかな、今御身の父君早雲殿も妾の父
種久も共に三浦の戦場に在るものを、留守居する身は明暮に親々の身の上を思うべきに、
生めいたる御言葉は心得難し、それよりも合戦の模様、今は如何なる噂にて候か」、氏時
「合戦は何時も味方の勝利、此頃住吉城をも攻落し、道寸は秋谷大崩の険阻に引退きたり、
程無く三浦を滅ぼして、某が父も御身の父君も目出たく凱旋し給うらん、其時こそ種久殿
に申入れ御身を迎え参らすべし、心して養生を成し給え」、小桜姫「復しても汚らわしき
御物語り、仮令父の許せばとて妾に心願の子細あり、容易に人の妻とは成り申すまじ」、
氏時打笑い「其心願の子細とは鳶尾山に閑居する三浦荒次郎に心を寄せ給うなるべし、我
父早雲御身の心を察し、もし荒次郎に内通せんも計り難しと某に厳重の手当を申付けたり、
さりながら荒次郎は御身の家の敵ならずや、敵に心を寄せ給うとも父君如何に許し給わん、
斯くまで何事も某が知りたる上は拒み給うほど御身の不利なるべし、早く某が心に従い給
え、のう小桜殿、何とて御返事の候わぬ、荒次郎は兄氏綱の為に破られて三浦表へ逃げ去
りたり、是も滅亡は遠かるまじ、由無き人を思い給うな」と恋に心を奪われて口より漏ら
す味方の密事、小桜姫俄に面を起し「ナニ荒次郎殿が氏綱殿に破られたりと仰せあるか、
それは御身の偽りならん、荒次郎殿は天下の英雄、易く人に破らるヽものならず」、氏時
「さあそれを破りしこそ兄氏綱の手柄なり、昨日荒次郎三百余騎の兵を率いて一の宮の城
に攻め来りしに、城中には兼て荒次郎の弟虎王丸と申す者を捕え置きたれば、それを人質
として美事荒次郎を追返したり」と語る言葉も終らざるに、小桜姫奮然として立ち上り、
傍に在りける十三貫目の大薙刀を手に取って「如何に小四郎どの」と大音に呼わったり、