75 唯一騎(馳せ出す)

 小桜姫は虎王丸の事を聞いて心燃えん計りに憤り「氏時どの、妾が心願は荒次郎殿を慕
うに非ず、妾に勝りし英雄ならでは良人に持たじと誓いしなり、御身が妾を迎えんとなら
ば先ず此処に於て妾と尋常の勝負せられよ、女ながらもいざ御相手仕らん」と大薙刀を打
振り斬って掛らん有様なれば、小四郎氏時縮み上り「是は理不尽なる仰せかな、今御身の
武勇に勝らんものは東八カ国にありと覚えず、筋無き難題を申して某を苦しめ給うな」と
頭を抱えて逃げ出す、小桜姫は手早く鎧を取って肩に掛け、乱れし髪を白綾にて畳み、大
薙刀を携え床堂々と踏鳴して縁端に立出で給う、「誰かある馬牽け」と大音に呼われば、
兵士一人月毛の駒の太く逞しきを牽き来る、小桜姫ヒラリと打乗り我が館を馳せ出て本丸
の前を過ぎ給えば、小四郎氏時驚いて立塞がり「姫は御病気の身を以て何処へ俄に立越し
給うぞ」、小桜姫馬上より氏時を睨み付け「妾が病気全快なしたれば、是より三浦表へ出
陣して父の合戦を助くるなり、留めんものは馬蹄に掛けて蹴殺さん、其処退き給え」と氏
時を追い遣り、疾風の如く小田原の城門を馳せ出しぬ、氏時遙に其後ろを見送るに、小桜
姫は三浦表の道筋へ向うならんと思いの外、城外より忽ち道を転じ阿芙利山の麓を廻って
一の宮の方へ駆け去りけり、兼ねて早雲より姫に怪しき事あらば引捕えよと下知ありしが、
氏時始め城中の者姫の勇気に怖じ懼れて其跡を追うものも無し、小桜姫は唯一騎一の宮の
城を望んで長き松原を馳せ過ぎけるが、相模川の瀬に至りける頃馬にみずかわんと流れの
岸に降り立ち給う、然るに向うより蓑笠を身に纏い百姓姿の男一人、姫の顔を倩々と打覗
きて側に来り「こは思い掛けなき小桜姫、今頃何処へ越し給う」と言う声聞いて小桜姫振
返り「そういう御身は菊名左衛門殿か、好き所にて御身に逢たり、妾は虎王丸が一の宮に
捕われしと聞き、夫を助けん為に唯一騎小田原城を馳出したるなり、抑荒次郎君は如何に
なし給う、虎王丸は何とて敵に捕れしぞ」、左衛門重氏進み寄り「其事に就ては某こそ世
に申訳無き事の候、先に姫君が種久殿の方へ御越ありし後、若君には毎日姫君の消息を待
給い、朝夕慨て在せしが我君の仰せにより本国三浦へ返し奉らんと初声太郎が迎いに参り
し時、若君は帰らじと仰せありて忽ち姿を隠し給う、其後如何に尋ね参らせても御行方更
に知れざりしに、昨日我君小田原征伐の兵を起して一の宮の城に押寄せ給いし時、思い掛
け無く城中より若君を人質として味方の兵を遮りければ、我君は怨みを呑んで本国三浦に
赴き給い、某一人跡に留まり敵の油断を見て若君を救い奉らんと姿を窶し、此辺りに彷徨
い候、扨姫君には今迄何処に坐して長く御便りの無かりしぞ」、小桜姫「何事も行き違い
たる我身なり、妾は北条家の者に欺かれ小田原城に入りたるに、父種久は疾くより早雲の
味方となり、此度も心を合せての三浦合戦、妾は荒次郎君の事を思い病に託して城中に留
まりしが、昨日の合戦の噂を聞き、虎王丸の身こそ心許無しと俄に出陣の用意せしなり、
御身が此に在るを幸い、妾は城中に入り命に換えて虎王丸を救い出さん、されども氏綱は
大敵なり、妾の生死計り難し、虎王丸を救い得ば御身城外に隠れて早く三浦に走られよ」
と共に謀を定めける、