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玄関ロビーを抜けてリビングを覗いてみるが、誰もいない。
クラウドは少し拍子抜けした気分になった。
灯りがついているから、帰ってきているはずなのに誰もいない。
もしかして、寝室にこもっているのかもしれない。
ザックス小隊は今日はソルジャー棟に泊まり込みだから、邪魔者が居ないと思って女性を呼んだのかも――自分の考えにまたズンと落ち込んできた。
知らず足音を忍ばせ、気配を殺すようにして寝室に続く廊下のドアノブに手をかける。
不意に背後に気配を感じて振り向くと、巨大な壁がそびえている。
もとい――家主が腕組みをして仁王立ちしていた。
クラウドは思わずドアに背中を張り付かせていた。
「お、お帰りなさい……サー」
「……ああ」
セフィロスは無表情にクラウドを見下ろしている。
何か機嫌が悪いんだろうか、殆ど瞬きもしない。
冷たい目で見下ろされ、クラウドは息が詰まる。
「……声をかける前に気配に気がついたのは誉めてやるが――」
セフィロスが低い声を出す。
「なぜ、足音を忍ばせる?オレの目を盗んで何か企んでいると思われても仕方ないぞ」
そのセリフにクラウドはぞっとなった。ひょっとして、スパイと思われても仕方なかったって事だろうか。
「お、俺、そんなつもりじゃ――」
「では、どんなつもりだ?」
「あ、あの……」
ショックで頭がぼうっとなって、クラウドは話すべき言葉が見つからない。
どうしよう、ひょっとして、サーに疑われてるんだろうか、俺。
蒼白になって目を見開いたまま固まっているクラウドに、ついに耐えきれずセフィロスは吹き出した。
「お前、真に受けたのか」
肩をゆらして笑い出したセフィロスに、一気にクラウドは身体の力が抜けた。
ドアに背を預けたまま、へなへなと床に座り込んでしまった。
「……本気で驚いたのに…」
床にへたり込んだままのクラウドが恨みがましく言うと、まだ笑いが止まらないらしいセフィロスは腕を掴んで立たせてやる。
「実際、オレの部屋で気配を消して行動する奴を見つけたら、オレは不審者と判断して斬るぞ。今後気を付けろ」
「……はい」
クラウドは素直に頷いた。力が抜けて反発する気も起きない。
「なぜ、こそこそしていた?」
今度の質問は笑いを含んでいる。クラウドは少しばつが悪そうな顔で答えた。
「……リビングに姿が見えなかったので、ひょっとして寝室でその……」
「女を連れ込んでると思ったか?うるさくして邪魔したら悪いと」
「……はい」
上目遣いでそう答えると、セフィロスはますます可笑しくなったようだ。
「何か誤解があるようだが、オレはこの部屋に女を連れ込んだことはないぞ」
「はあ…?」
クラウドは気の抜けた声を出した。
「だって、…前に呼ぶ気だったって…」
「呼ぼうかと思っただけで、実際に呼ぶ気はなかった。普段はそういう場合はホテルを使う。私室に女をいれると、調子に乗って後々面倒だからな」
「はあ……」
もう一度気の抜けた声を出してから、クラウドははっと気がついた。
「ひょっとして、俺の抱き枕志願って、余計なお世話でした?」
「余計ではないな。お前の抱き心地は気に入ったと言ったはずだが。――ただ」
「ただ?」
クラウドは身構える。ただ、なんだろう。
セフィロスは笑うのを止めて、緊張した瞳で自分を見上げている子供を見つめた。
丸みのある幼い顔を眺め、柔らかい頬に指を当てる。クラウドは自分に触れる長い指先に目を向ける。優しいさわり方だ。壊れ物の表面をなぞるような、ふわりとした手つき。
「お前は?余計なことを言ったと後悔していないか?」
クラウドは少し目を見張った。
確かに、全く後悔したことがない、と言えば嘘になる。ごく当たり前の、上官と下っ端兵士の関係でいた方が良かったんじゃないかと考えたことはある。
でもそれは、セフィロスと関係を持つのが嫌だからじゃなくて、むしろ逆だ。
間近で綺麗な翠の瞳をじっと見つめているうちに、クラウドはそわそわと落ち着かなくなった。
……ヤバイって、これ……元気になりそう……。
久しぶりに顔を見て、声を聞いて、クラウドは自分でもびっくりするほどセフィロスの一挙一足に反応してしまう。
――マジでヤバイ――ばれたら、恥ずかしくて死にそう。
「……クラウド?」
セフィロスが低音で名前を呼ぶ。
だから、その声がまたまずいんだって。
焦って彷徨っていた手がドアノブに触れ、クラウドは思わずそれを回した。
ドアが後ろに開き、クラウドは勢いでそのまま廊下に転がってしまった。
「クラウド」
セフィロスが固まっている。まるで下手なお笑い芸人のパフォーマンスのようなクラウドの行動が理解できないようだった。
「お、俺、今日は倉庫整理で埃だらけで汚いんで、シャワー浴びてきます」
あたふたと起きあがって自室のドアノブに手をかけたところで、セフィロスが爆笑する声が聞こえた。
ほんとに笑い上戸だ、肩が揺れるたびに髪も一緒に揺れてる。
ゆらゆら揺れる銀の糸。鈍い透明な光を放っているようだ。
自室のドアを開けかけて止まってしまったクラウドに、セフィロスは笑いながら声をかけた。
「あとでいいから、書斎にコーヒーを持ってきてくれ」
「は、はい」
クラウドはひっくり返った声で返事をすると、急いで部屋に飛び込んだ。
バスルームに飛び込んで、勢いよく冷水のシャワーを浴びた。
熱くなりかけた身体から熱が引いていくのを感じ、クラウドは深いため息をつく。
「なんで、こんな時ばっかり盛り上がるんだろ。半人前のくせに、色気づくのだけは一人前なんて、サイテー……」
冷たい水に鳥肌が立ち、慌ててお湯に切り替えた。備え付けのソープのボトルが変わっている。小さめのいかにもお客様用のボトルだったのが、大きめサイズになっている。そろそろ中身が切れそうだったそれを、ルームキーパーのブライト夫人が新しい物に変えてくれたようだ。ボディソープとシャンプーとリンスときちんと並べられたボトルは、お揃いの小さな紫の花が描いてある。
甘くて優しい、気持ちが落ち着く香りだ。
クラウドは泡だらけになって身体を洗いながら、何度も深呼吸を繰り返した。
気持ちを落ち着けて、それから身体の方も落ち着いたのを確かめ、気合いを入れてバスルームから出た。
コーヒーカップをトレイに乗せ、クラウドは書斎のドアの前で深呼吸した。
この部屋にはいるのは初めてだ。勝手に入れば正宗の錆になるという部屋だ。
粗相なんてしないように、気を付けようともう一度深呼吸し、クラウドはドアをノックする。
「開いてる。入れ」とすぐに返事がある。
「失礼します」
クラウドはドアを開けると、おそるおそるといった風に中に入った。
壁一面が本棚やガラス戸入りの書類棚で埋まっている。その中に大きな重厚な机があり、セフィロスはそこでパソコンを前に何かしている。
仕事中だろうかと入ったところで固まっていると、「何している。こっちに来い」とセフィロスが手招きする。
「……そっちに行っても良いんですか?仕事中じゃ…」
「見られて困るような仕事は持ち帰らない。オレが不在中のミッションの報告書をチェックしているだけだ。ザックス小隊のもあるぞ」
セフィロスが笑い混じりに言う。何がそんなに可笑しいんだろうと思いながら側に行き、カップを机に置いた。カップを手にセフィロスはマウスを操作して、ザックス小隊のこなしたミッション一覧の画面を呼び出している。
「ショーの警備と幼稚園の交通指導。それから、ミッドガル・カーム間街道沿いのモンスター掃討が2回か。お前も出たのか?」
クラウドは横から盗み見るようにモニター画面を見た。セフィロスの腕が伸び、正面から見える位置まで引っ張られる。必然的にモニター正面に座っているセフィロスの脚に座らされる格好になった。上官の左太股を椅子代わりにして、クラウドは落ち着かない。
もぞもぞと動いて逃げようとするが、腰に腕が回っているので逃げられない。
セフィロスはそんなクラウドのささやかな反抗を気にせず、もう一度「戦闘にお前も出たのか?」と聞いた。クラウドは小さくため息をついて、逃げるのを諦めた。
「付近の封鎖と交通整理だけです。戦闘は全部ザックス達が行ったので」
「カームファングの群程度なら、さほど面倒ではなかっただろう」
セフィロスはまたマウスを操作する。画面に現れた報告書を見て、肩をゆらした。
「……何がそんなに可笑しいんですか?」
怪訝そうに画面を覗き込み、クラウドは「げっ」と小さく声を漏らした。
あの、ファッションショー警備の報告書だ。
「……これは、支援部隊スプラウト班長が提出したものだが……新兵がモデル護衛のために女性兵の服装をし、デザイナーのセクハラとモデルの嫌がらせに耐えつつ任務をこなす様が切々と描かれている。涙無しでは読めない出来上がりだ、下手な小説より泣けるぞ」
「こ、これ、大げさです」
「これだけ頑張っているのだから、借金の棒引き額を上げてくれと言う一般兵から事務局へのアピールだ。諦めて大げさに描かれておけ」
はーーっとクラウドは長いため息をついた。公式記録として女装したことが残るのか…。
「セクハラを受けたのか?」
「セクハラって言うか、……本当に女性だと勘違いされて、ドレスをプレゼントさせてくれって言われました」
「受け取ったのか?」
「断りました。それどころじゃなかったし」
「それは残念だ」
「……サーまで、俺にドレス着せようと思ってるんですか?」
「似合うから」
悪びれもなく言われ、クラウドはまたため息をつく。
セフィロスは低く声を上げて笑った。いちいち真面目に反応する子供の態度がおかしくて、見ていると飽きない。
子供の肌からふわりと甘い香りがする。目の前にある項に顔を寄せると、クラウドは少し狼狽えたように振り返った。
「……あの…」
「いい香りがするな」
「あ、これ、ブライトさんが用意してくれたボディソープです。こんないい香りのする石鹸があるなんて知らなくて、少しびっくりしました」
クラウドは少し的はずれな事を答えた。
「知らなかったのか?」
「……俺の家で使ってたのは、香料とか入っていない固形の石鹸だったから……」
セフィロスの息が首筋にかかり、クラウドはまた落ち着かなくなった。
身体を揺するようにして離れようと試みるが、もともとセフィロスの脚の上に座った体勢で腰に片腕を回されているので、身体の自由は殆どきかない。
むしろ脚の上で尻をもぞもぞ動かされているので、セフィロスにしてみれば煽られているようなものだ。
「誘っているつもりは――ある訳ないな」
「は?」
反射的に顔を上げると、セフィロスと目があった。そうすると、クラウドは目が離せなくなる。セフィロスの翠の目。微妙な色合いが揺らめく光彩と縦長の瞳孔は魔力を秘めているようだ。
形のいい唇が僅かに動く。何を言ったのか、クラウドの耳には入っていない。顎に手が掛かって、ああキスされる、とそう思った瞬間、狙ったように電話のベルが響いた。
「うわぁぁぁ!」
不意をつかれてクラウドは普段なら上げないような声を上げた。我に返って間近の美貌に慌て、逃げようとして椅子代わりにしていた脚の上から落ちそうになり、焦って腕を振り回して、結局、笑いが止まらなくなってしまったセフィロスに抱きかかえられた。
「……何をやってる」
声を震わせたセフィロスにそう言われている間も、電話のベルは止まらない。
クラウドはばつが悪くて真っ赤な顔で口をへの字にする。
「……電話……どこから…」
場を誤魔化そうとそんなことを言ってみると、セフィロスは急に不満げな顔になって電話のナンバーディスプレイを覗き込んだ。
「ハイデッカーのオフィスだな」
「じゃ、じゃあ、俺、外に出てます!」
クラウドはセフィロスの脚の上から滑り降りると、酔っぱらいのような足取りでドアへ向かった。
ふらふらと蛇行しているクラウドの歩き方にセフィロスがはらはらしていると、案の定、ドアに行き着く前に書棚の角にぶつかり、落ちかけた本を慌てて抑えている。
何をやっているのかとまた笑いがこみ上げてくる。
小さな背中が書斎から消えてしまうと、セフィロスはいきなり不機嫌になった。
お気に入りの玩具を無理矢理片づけられてしまった気分だ。
電話のベルがしつこくなっている。
今日一日中会議で顔をつきあわせていたくせに、まだ何か言い足りないことがあったのだろうか。
セフィロスは不機嫌を隠す気もなく受話器を取った。ハイデッカーのだみ声がいきなり怒鳴りつけてくる。
『いるなら早く出ろ。急ぎの用事だ』
「なんの用だ」
セフィロスはハイデッカーのわめく声を無視して話を促した。本人が直接電話をよこすなら、ますますまともな用件ではない確率が高くなった。
『ああ、今日の会議で言っていた南ウータイの駐留部隊の編成だがな。減らしたい部隊の規模は一個大隊分だったか、三個中隊分だったかどっちだ?』
「書類で報告していたはずだが」
『ああ、そうだったか?読んでなかった』
受話器からガッハッハという大声が意味無く響く。
セフィロスは無言で電話のコードを引っこ抜いた。
今夜もう一度あのガッハッハを聞いたら、本部に殴り込んでしまうに違いない。