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  4. ぐるりよざ殺人事件

ぐるりよざ殺人事件/古野まほろ

2013年発表 角川文庫 ふ31-2(KADOKAWA)

 本書では、“ホワイダニット→ハウダニット→フーダニット”という三段構えの解決に先立って、フーダニットの島津今日子が“一番鎗”をつとめる形になっています。これはもちろん、ホワイダニット篇で複合した動機を解き明かすための(最低限の)前提として、〈命令者甲〉と〈実行者乙〉に分かれた重層的な犯人像を明らかにしておく必要があるためで、前作『セーラー服と黙示録』と違って三人の探偵が同席していることによって、手順を柔軟にすることが可能となっています。

 〈命令者〉と〈実行犯〉の構図は解決篇よりもだいぶ前、地下鍾乳洞での小薔薇と小百合の会話(356頁)で大胆に明かされていますし、さらに前、御披露目の席での古野みづきのやや唐突な“最後の質問”――“うちら娘の内、甲が乙に命令して、乙が人殺ししたら、どうなるだん?”(228頁)――でも示唆されているのですが、その質問に対する回答で“命令した甲だけが破門”(228頁)と、すなわち“実行犯ではなく命令者が破戒者である”*1とされているにもかかわらず、二人で一人の村長としての殺人であるために、“小薔薇様は”“小百合様は”(326頁)といった個別の問いかけに対しては、第八戒を破ることなく殺人を否定できているのがうまいところです*2

 古野みづきの“最後の質問”は少々唐突に感じられますが、「グ事件」について“正直族”である村人たちが犯行を否定している中、この時点ですでにあり得る可能性を想定していた、ということでしょう。実際、よく考えてみると、“正直族”しかいないはずの鬱墓村において、犯人が“あなたは殺人を犯したか?”という直截的な質問を回避できるのは、[1-1]命令を受けた実行犯だった、[1-2]個人ではなく共同での役職としての殺人だった(以上、いずれも「ハ事件」)、[2]主観的に“殺人”に該当しない行為だった(「グ事件」)、[3]“正直族”を装った“ノーマル族”だった(「キ事件」)、以外にはほとんど想定できない*3ので、不思議はありません。またそうしてみると、考え得るケースをすべて網羅しているのが、本書のすごいところの一つといえるのではないでしょうか。

*1: 読み返してみると、“焙煎の尼”の“破戒者は殺人者ではないし、殺人者もまた、破戒者ではないのじゃ”(396頁)という表現も、重層的な犯人像を示唆していたことがわかります。
*2: とんち話のようでやや釈然としない向きもあるかもしれませんが、同じように“嘘をつかない人物”が登場する海外短編((作家名)アイザック・アシモフ(ここまで)(作品名)「実を言えば」(『黒後家蜘蛛の会1』収録)(ここまで))よりもスマートに処理されていると思います。
*3: 問われるのが“主体”と“行為”しかないため、“私ではない”と主体を否定する([1-1]・[1-2])か、“殺人ではない”と行為を否定する([2])か、あるいは“嘘をつかない”という前提を覆す([3])、以外に逃げ道はないと考えられます(例えば犯行時の記憶を失ったような場合には、「わからない」と答えなければ第八戒違反になるのではないでしょうか)。

*
LA MADONNA DEL MOTIVO
 [命令者甲の動機]についてはまず、その前提となる十戒の突然変異が強烈で、鬱墓村の人々を縛る“ルール”である十戒が、長い年月を経てのダジャレ的な“コピーミス”によって、同じ名前でありながら外界のそれとは大半が異なる異質な“ルール”に変じているのが非常に面白いと思います。変異については作中の随所に手がかりがありますし、解決篇よりも前に木佐橋ユキと杏樹恵美のやり取り(456頁~458頁)で示されていますが、何とも凄まじい“落ち武者の歌”(427頁~428頁)や、さらには題名の“ぐるりよざ”――“日本のキリシタンが歌い継ぐうちに訛ってできた言葉。”(5頁)――までがヒントの一環となっているのがお見事です。
 巧妙なのが、“鬱墓村の十戒”が外界のそれと違っていること自体が問題ではなく――例えば外界の第六戒“汝、姦淫するなかれ”を破っていることではなく、変異した第六戒“汝、監禁するなかれ”(509頁)に抵触することが問題となる*4点で、あくまでも“鬱墓村の十戒”に基づいた動機であることが“異世界本格”らしい魅力となっています。

 次に(グハ犯人の)[見立ての動機]は、これまた変異した十戒の第四戒“汝、符合を敬うべし”(514頁)によるもので、春期研修旅行の事前課題の課題3に掲げられた“トリックでも演出でもない見立て”に対する鮮やかな解答となっているのが秀逸です。
 作中の〈見立て殺人講義〉(290頁~302頁)でも説明されているように、見立ての実際的な効果は“トリックか、恐怖感”(301頁)だけといっても過言ではないのですが、そこで新たな効果を模索する方向へ進む代わりに、損得勘定を抜きにして“そうせざるを得ない”状況を構築し、なおかつ変異した十戒という形にそれを明文化することで、その機構のみならず強制力までも理解しやすい形に仕立ててある、実によく考えられた仕掛けといえるでしょう。

 続いて[グハ犯人の動機]は、“グ犯人が『烙印の赤児』『烙印の小倅』だったから”(521頁)というところから始まっています。これは、村長が第五戒の破戒を許した〈ハ犯人〉が“長篠の倅”“尻焼けの長篠”(356頁)であり、すなわち“囲炉裏で焼かれた烙印坊”(119頁)であることから、軍人殺しを含めた鬱墓村への復讐という動機を持っている〈グ犯人〉でもある――といった具合に、フーダニットにもかなり踏み込んだ形となっている*5のですが、動機論の中で“長篠の倅”(が長篠少尉ではないこと)に言及せざるを得ない上に、〈キ犯人〉の動機を解明するために〈グ犯人〉と〈ハ犯人〉が同一人物であることを示しておく必要がある*6ので、必要不可欠といえます。
 しかして、動機の背景となる“鬱墓村防衛軍”の正体と軍人殺しは、随所に数多くの手がかりが配置されてある程度わかりやすくなっているとはいえ、ドル贋幣*7という“秘宝”も絡めて落ち武者伝説に重ね合わせてあるところまで含めて、非常に丹念に構築してある感があります。そしてまた、“いかにして嘘をつくことなく真相を隠すか”の技術が遺憾なく発揮された、スールでの古野みづきと“小坂井上等兵”・“下地上等兵”との質疑応答が、読み返してみると実に見事です*8

 そして最後の[キ犯人の動機]は、まず「キ事件で」村長が殺されていないこと――さらにいえば〈キ犯人〉が野田城巡査をあえて殺さなかったこと――から、鬱墓村への「復讐」を目的の一つとする〈グハ犯人〉にそぐわないものであり、したがって〈キ犯人〉は〈グハ犯人〉と別人である、というのはよくできています。しかしそこから先は、〈キ犯人〉が新城医師だと確定させれば動機もほぼ一目瞭然のところ、あくまでもフーダニットを回避して動機を解明しようとすることで、少々苦しくなっているのは否めません。
 特に、キヨ殺しは“キ犯人も希望しなかったこと”(550頁)であり、犯行時の〈キ犯人〉の視点では聖アリスガワ女学校の生徒三人――当然二年生も含まれる――が被害者だったはずが、いきなり“二年生三人娘以外”(542頁)とされているところなどは、一見すると危ういものになっています。このあたり、丁寧に説明しようとするとかなりくどくなってしまうせいか、はしょり気味になっている節があるので、若干補足してみます(各方面、なにとぞご寛恕を)。
(542頁12行から)
 ここで、キ事件の状況。
 まず、キ犯人はオエステ組ではなくエステ組を狙った。これはみづきの領分なので、具体的なところは譲りますけど~、キ犯人は、どちらでも先に到着した方を殺すつもりで、ノルテで待ち構えていたのではなくて~*9、明確な意図をもってエステ組を狙ったということです~。
 次に、キ犯人は『散弾銃二発の連射』で三人を殺害していますが~、木佐橋お姉様と杏樹さんは『心臓を破壊され』たのに対して、キヨちゃんは『頭部を半分失』った状態でした。ここから凶行の経緯を再現してみると~、キ犯人は木佐橋お姉様と杏樹さんを狙って一発ずつ撃ち、キヨちゃんは脇から二人を庇おうと射線に入り込んで、近距離で弾丸を受けた。すなわち、『もう一人の女生徒』まで殺すつもりだったかどうかは不明ですが~、キ犯人は木佐橋お姉様と杏樹さんを優先的に狙ったということになります~。
 ところで。
 たとえ動機が別であっても、キ犯人の目的が木佐橋お姉様と杏樹さんの排除だけだったら~、やっぱりグハ犯人に任せておけば、いずれ目的は達成されたはずですよね~?
 何故それでは駄目だったのか。
 何故キ犯人はグハ犯人に先んじて凶行に及んだのか。
 どうしても自らの手で木佐橋お姉様と杏樹さんを殺したかった? そんな根深い動機は~、私達の短い滞在ではちょっと想定できないので、却下させてもらいます~。
 一刻も早く事件を起こす必要があった? はい、後で御説明しますが~、とある事情でキ犯人が焦っていたのは確かです。でも~、その事情だけなら別段、殺人でなくても解決できちゃうので~*10、これも却下。
 となれば、考えられる理由はただ一つ。『侵入者鏖{みなごろし}』を目論むグハ犯人に任せておくと、女生徒のうち次に誰が殺されるのかわからないから。換言すれば、キ犯人にとって都合の悪い女生徒が殺される危険があったから。そういうことですわ~。
(542頁13行へ)
 ……さらにいえば~、直前にも検討されている(540頁)ように、木佐橋ユキと杏樹恵美は「主よ御許に」の第三番だけでなく第四番・第五番にも“符合”し、逆に二年生三人は特に“符合”する箇所が見当たらないことから、〈グハ犯人〉が木佐橋と杏樹を後回しにして二年生を先に狙うことは十分に考えられる、というのも傍証となりそうです。
 というわけで、鬱墓村特有の修道女制度のために(少なくとも二人の)二年生を確保しつつ、桜児の花嫁候補を減らすために三年生と一年生を殺害する、〈キ犯人〉の動機は何とも強烈。そしてキヨのための犯罪だったはずが、当のキヨを殺害することになってしまった皮肉な顛末が胸を打ちます。

*4: 修道女制度をめぐる“第六戒に違反しているわ。”“た、確かに監禁に見えるかも知れません。”(380頁)という、第六戒の変異を示唆するやり取りの直後に、さりげなく“例えば外の司教さま、大司教さまが御覧になったら、まずそう指摘するでしょう。”(同頁)と、動機の核心に言及されているのが大胆です。
*5: 長篠少尉は“胸から背から尻、腕脚、女性でも嫉むつるつるの鏡餅”(414頁)なので、“尻焼けの長篠”である〈ハ犯人〉には明らかに該当せず、一方で東新町神父が“御前は烙印の子じゃ!!”(142頁)“あの烙印の小倅、東新町の尻赤猿”(387頁)と“焙煎の尼”に罵られていることから、“尻焼けの長篠”=“烙印の赤児”だとすれば〈グハ犯人〉は明らかになります。さらにいえば、“焙煎の尼”が桜児の聖書に関する知識に感心して口にした言葉――“長篠に代わって御役目衆に入れたいくらいじゃて”(392頁)から、ここでは(長篠少尉と違って)御役目衆の一員であり、聖書の知識が重視される人物“長篠”と呼ばれていることになります。
 なお、島津今日子がキヨに“ミヨちゃん、囲炉裏に落ちて火傷したなんてことは無い?”(442頁)と尋ねているのは、念のための確認というよりも、作者から読者に対する注意喚起の意味合いが強いように思われます。
*6: 事件の被害者をみると、(「キ事件」よりもむしろ)「グ事件」だけが浮いているととらえるのが自然ですし、(葉月茉莉衣も“実はここで時間軸を整理しておかないといけないのですが~”(521頁)としていますが)村長が第五戒の破戒を許す前に起きていることを踏まえればなおさらです。そしてその場合、「キ事件」はいわば「ハ事件」に“吸収”されて、動機の独自性が見えなくなってしまいます。
*7: 第二次鬱墓村農民一揆でのドル紙幣わきでる、ジ・オチムシャズ・カース!!”(429頁)という叫びはもちろんですが、本篇冒頭の原磯晴美の“こ、鯉ですか? 兌換?”(25頁)という勘違いまでが、まさかの読者へのヒントだった可能性が……?
*8: 特に、“「……小坂井上等兵なら」と下地上等兵。「確かに帝都からみえた軍人さんだのん」/「下地上等兵も」と小坂井上等兵。「確かに帝都から鬱墓入りした軍人さんだわ」”(403頁)という箇所など、“正直族”であれば自分についての証言で十分なところを、ご丁寧にお互いの身分を保証している……ように見せかけて、本物の小坂井上等兵と下地上等兵について証言するという、叙述トリック的な手法が絶妙です。
*9: [オーバーテクノロジーの論点]での「一揆の条件」により、ノルテで長時間待ち伏せをするのは不可能だったことが示されています。
*10: 後に示される「脱出のための混乱惹起」(549頁~550頁)ですが、村に混乱をもたらして警戒を崩すには、(〈キ犯人〉には実行可能だった)スールでの爆発だけでも十分でしょう。

LA MADONNA DEL METODO
 [音の論点]では、「ハ事件」の際に午後九時の鐘が鳴らなかったことが推理の出発点とされていますが、“あら、でももう九時だわ。御殿は静かだし、まだ晴美たちオエステなのかしら?”(294頁)と、さりげなく事実を示す作者の手際がまず目を引きます。さらに巧妙なのが、見回りの角川彦兵衛が“午後九時の鐘を聴き逃して”(311頁)遅れた事実で、読者に対してはもちろんのこと、鐘が鳴ったかどうか気に留めない村人たちに対しての手がかり――鐘が鳴らなかったことを納得させるための証拠として扱われているのが面白いところです。
 実際には鐘が鳴らなかった以上、“午後九時の鐘が鳴り”(322頁)という桜児の証言はトリックの産物であり、その目的からすると、犯行時刻を示すと思われた銃の発射音も“偽”である――という一直線の謎解きは爽快。録音・再生によるトリックはもはや陳腐ともいえますが、レトロなディクタホンが使われたこと――ここには少々気になるところもありますが*11――も含めて、1945年でテクノロジーが止まった鬱墓村にふさわしいというべきかもしれません。
 銃殺でないものを銃殺に偽装するトリックには前例もあり*12、さほど新味があるとはいえないかもしれませんが、推理の手順がそうなっているように、アリバイトリックであることを看破しない限りトリックの存在に気づけないのが巧妙。そしてその一方で、葉月茉莉衣による事件の“事実の整理”において、“二、眉間を銃弾と思しきものでつらぬかれて”(503頁)フェアに記述されている*13ことで、“探偵がどのように推理しているか”を示唆するメタな手がかりとなっているのが見逃せないところでしょう。

 [オーバーテクノロジーの論点]は、ハウダニット篇の冒頭で“密室、人間消失その他の不可能事などございません”(551頁)と宣言しておきながら、「一揆の条件」(長時間の待ち伏せが不可能)、さらに「機転の条件」「捻挫の条件」「速度の条件」(到着時刻の予測が不可能)をもとにして、隠れた不可能事を浮かび上がらせるところがよくできています。そして、“神の視点”を要する不可能事から逆算する形で、いきなり監視カメラという(鬱墓村においての)オーバーテクノロジーが飛び出してくるのが豪快です。
 かくしてオーバーテクノロジーの存在が示された以上、他にどのようなものが出てきても一向に不思議はないわけで、〈キ犯人〉がスールで(炎上ではなく)爆発を起こしたことを糸口に、“交通手段というスクリーニングで、新城医師は救済できる”(489頁)とされたアリバイを突き崩すボート用のエンジンが登場するのも納得です。

 冒頭で“私の主題はひとつ”(551頁)と宣言するだけで伏せられていた、その主題はアリバイトリックだったわけですが、ここにも表れているように、本書は“アリバイもの”と喧伝できないタイプのアリバイもの――“アリバイもの”と明言すると、隠されていた犯人(=強固なアリバイのある人物)が露見してしまうタイプの作品となっています。本書の場合、ホワイダニット/ハウダニット/フーダニットが分離されているので当然といえば当然かもしれませんが、特定の容疑者(実質的に明らかになった犯人)のアリバイを崩すのではなく、犯人が誰なのか明言しないまま、密かに仕掛けられていたアリバイトリックを掘り起こすという、一般的なアリバイものとは違った手順になっているのが面白いところです。

*11: ハウダニット篇では“ハ犯人は二台のディクタホンを駆使して、鐘と銃声を”“ディクタホン一台を、また犯行現場近傍に”(555頁)といったやり取りでさらりと説明がすまされ、後にフーダニット篇では、〈ハ犯人〉がディクタホンを隠していたボートから出したことが確認されています(580頁~581頁)が、遺体発見時にディクタホンが見つかってしまうおそれはなかったのか(〈ハ犯人〉が先にディクタホンを回収する機会はない)、また屋外であればディクタホンの電源はどこから取ったのか、といったところが気になりますが、後者については村に一応存在する電池(593頁)で何とかなるのかもしれません。
*12: すぐに思い出せたのは、国内作家(作家名)泡坂妻夫(ここまで)の短編(作品名)「双頭の蛸」(『亜愛一郎の逃亡』収録)(ここまで)ですが、他にもありそうです。
*13: 当然ながら、葉月茉莉衣は動機だけでなく(少なくとも「ハ事件」について)手口も解明していることになります。

LA MADONNA DEI CRIMINALI
 ホワイダニット篇とハウダニット篇を経て、すでに犯人は実質的に明らかになっていますが、このフーダニット篇では別の切り口から犯人を導き出す推理がお見事です。

 [飴玉の物語]ではまず、〈ハ犯人〉が飴玉を見立てに用いたことから、〈ハ犯人〉は雨を予期できなかったとされています。“飴”と“雨”が重複しても不都合はないようにも思われますが、歌詞の中で“天{あめ}”の部分だけ複数の見立てが用意されるのは不合理なので、雨を予期できれば飴玉が不要なのは確かでしょう。一方、野田城巡査以外にずぶ濡れになった人物がいなかったため、〈キ犯人〉は雨を予期できたというのは妥当で、〈ハ犯人〉と〈キ犯人〉が別人という結論がしっかり導き出されています。
 そこから先は、見立てに使われた“オーロラブルーの球体”(305頁)――青い飴玉を入手することができた人物が犯人、というシンプルな条件で〈ハ犯人〉が確定することになりますが、鬱墓村の第十戒“汝、人の持ち物を濫りに覗くなかれ”(508頁)によって他の村人たちが除外されるところがよくできていますし、最終的には“私達以外の誰かに青い飴玉を與えたことはありますか?”(577頁~578頁)犯人自身に確認する、“正直族の村”ならではのユニークな手法*14が印象的です。
 村長に第五戒の破戒を許される前の「グ事件」については、殺された“牛久保上等兵”と“大田切上等兵”が役者であり“亡霊”だったから第五戒違反ではない、という真相が鮮やか。特に、カトリックの司祭としては“亡霊”の存在を認めるわけにはいかない、というところに説得力があります。

 [夜空の物語]は、ハウダニット篇の[オーバーテクノロジーの論点]を下敷きにしつつ、崩れたアリバイにはまったく触れられないまま進んでいきます。スールの爆発炎上する夜空に村人の注意が向くことから、エンジンボートで移動する〈キ犯人〉の出発点はエステかオエステ――したがって〈キ犯人〉は、(専用ボートを持たない長篠少尉を除いて)エステにいた槙原消防組長かオエステにいた新城医師、という手順により、この段階でわずか二人にまで絞り込まれるのがすごいところ。
 続いて、[飴玉の物語]でも検討された“もう一つの夜空の物語”――〈キ犯人〉が雨を予期できたことから、それを可能にするオーバーテクノロジーである携帯可能な電池式のラジオの存在が導き出されますが、謎解きの場面(594頁)にも引用されている、“電池があれば聴けるのですが(中略)ラジオが聴けたら、この鬱墓ではどんなに慰めになるか知れません”(468頁)という言葉は決定的*15で、本書の読者にとっては犯人を確定させるに十分な論証といえます。
 しかしながら、当の新城医師がその発言を否定していることもあって、島津今日子の論証は次の段階へと突入し、「ラジオの論点」をもとにして〈キ犯人〉――“正直族”を装った“ノーマル族”をあぶり出すための、周到に仕組まれた論理パズル風の罠*16が展開されるのが非常に秀逸です。
1.新城家に携帯可能な電池ラジオがある、とキヨが証言した。
2.島津今日子は嘘吐き族である。
 実のところ、“正直族”ならぬ私の頭では十全に理解できていないきらいがあるのですが、焦点となるのは上に挙げた二つの命題で、“正直族”であれば〈命題1〉を“100%の確信”をもって否定することも、また〈命題2〉を“100%の確信”をもって断言することも、どちらも不可能*17――つまりは、どちらか一方だけでも対応を誤ると“正直族”でないことが露呈してしまう、二重の罠になっている……と考えられます*18
 まず〈命題1〉について、“携帯式ラジオを目撃した”や“小さい電池を押収した”といった新城医師が確信をもって否定可能な嘘を繰り返し、それに対する否定を積み重ねさせることにより、本命である、新城医師が確認できない*19キヨの証言まで“100%の確信”をもって否定させるよう、会話を誘導した手際が実に巧妙です。
 ここまででも十分だと思われるのですが、さらに――読者によりわかりやすくするためでしょうか――〈命題2〉で止めを刺すべく、“嘘しかしゃべらない嘘吐き族”を持ち出し、ラジオの論点に関する二人の主張が“ゼロサム”(いずれも597頁)だと強調し、すべて、常に第八戒に違反した嘘吐き族である――という確信を迫ることで、これまでもこれからも、あなたは嘘吐き族でいらっしゃる”という致命的な言葉を引き出し、それに対して“そう、私は嘘吐き族です。”(いずれも598頁)と鮮やかな一言*20で矛盾を生じさせて新城医師が“ノーマル族”であることを立証する、念入りに組み立てられた手順がお見事です。

*14: 最も身近な立場の桜児でさえ事件直前に青い飴玉の存在を知らなかった(277頁)ことから、他の村人たちの誰も入手の機会がなかったことを見越した上での確認だと考えられます。
*15: とはいえ、外界人の感覚で読んでいるとあまり違和感がないため、これが“オーバーテクノロジー”に関する発言であることに気づきにくくなっている感があります。
*16: 白井智之『東京結合人間』では、本書と同じように“正直族”のクローズドサークルでの殺人が扱われていますが、そちらでは“探偵役”自身も“正直族”である――当然、“私は嘘吐き族だ”という発話はできない――ことで、本書とはまったく異なるアプローチがなされているのが興味深いところです。
*17: “正直族”である東新町神父は、“私はそう聴かされ、それを確信しています”“第三者がまったく聴かなかったかは分かりませんが”(いずれも580頁)、あるいは“『適法に』の意味が『十戒に違反せずに』ということならば”(583頁)のように、第八戒に違反しないよう注意深く回答しており、新城医師との違いは歴然としています。
*18: 新城医師が“島津嬢が桜児君を、ノーマル族に仕立てようと謀んだら”と挙げた例に対して、桜児は“強姦と証言とでは全然違います。”としていますが、これはあくまでも例の前半部分についての話であって、後半の“嘘吐き族”についてはやはり“正直族だけの村”では“絶対にありえません”(以上、いずれも603頁)ということになります。
*19: 新城医師が“存在しないものを話題になどしない”(597頁)と答えているように、“確認した”と答えた時点で即アウトになってしまうのが巧妙です。
*20: ところで、“もうひとつの発話”が今ひとつピンとこないのですが……“私は嘘吐き族です。”を裏返した新城先生は正直族です。”であれば、野田城巡査の説明(599頁~600頁)“三、すると、娘っ子の発言は偽になるから、新城は正直族ではない。/四、新城が正直族でないなら、一と矛盾する。/五、矛盾するならば、一の仮定が誤っている。”となり、同じ結論に到達できるように思われるのですが、果たしてこれでいいのかどうか……。
*

 最後には、鬱墓村からの脱出経路に立ちはだかる暗号の解読が待ち構えています。大半がカトリックの知識に基づいた暗号であるため、少々わかりづらいところがあるのは確かですが、いずれもよく考えられていると思います。
 最初の〈ダイヤル錠〉は、ローマ教皇の名前が鍵となっていますが、読者に向けては「PRELUDIO」“第二次世界大戦時、ピウスXII世聖下……”(20頁)とヒントが示されているところがよくできています。
 〈第一の鍵〉である“翼翼空空”の歌(250頁など)は、“フランスで使われたことのある暗号の実例”(390頁)とあるように、某作品*21を読んでいればかなりわかりやすいと思いますが、“L”・“R”の文字からさらに“左”・“右”にまで発展させてあるのが秀逸。
 〈第二の鍵〉である“村長を教皇にする”と“民數記第十三章第二十節”(391頁)は、かなり難解。観音像の上に“族長十字”があることは示され、さらに“日本で族長十字はあまり見ない。”(362頁)と強調されてはいるのですが、「Laudate | キリスト教マメ知識」に示されているような十字架の種類と形状を知らない限り、解明するのは難しいでしょう。しかし暗号としては、意外に直接的でシンプルな指示になっています。
 “マタイ伝福音書第九章第三十二節”から始まる〈第三の鍵〉(392頁)は、節番号がレッドへリングという豪快さに加えて、それをうまく婉曲的に表現した“アダムの息子に騙されるな”(394頁)というヒントに脱帽です。

 最後に明らかにされる“焙煎の尼”の正体には唖然とさせられつつ*22、あのハイテンションを思い返すと苦笑を禁じ得ないところですが、鬱墓村の凄まじい“全滅エンド”、さらには学園側における事件の“決着”を踏まえると、やはり薄ら寒いものが残ります。

*21: (作家名)モーリス・ルブラン(ここまで)の短編(作品名)「遅かりしシャーロック・ホームズ」(『怪盗紳士ルパン』収録)(ここまで)
*22: “エールストライカースタンバイ”(397頁)(→「機動戦士ガンダムSEED - Wikipedia」)などは、“焙煎の尼”が外界人であることを示唆する伏線だったのか、とも思いましたが、“一九九一年の世界”(663頁)という設定だとすると、そもそも時空を超えている(「機動戦士ガンダムSEED」は2002年~2003年放映)ので、伏線の可能性はなさそうです(しかし“エール”は“aile”なので、“翼翼空空”の歌のヒントになっていた……?)。

2016.02.22読了