おやすみ人面瘡/白井智之
まず、“間引かれる人”で“人間”というのはいくら何でも強引だと思いますが、これはもちろん人瘤病患者を隠すため。あの手この手でツムギが妊娠していると思わせておいて(*1)、“この街には、あたしみたいな人間がいちゃいけないんだよ”
(55頁)というツムギの言葉で明かされた真実を、あわよくば読者に対して隠蔽しようという仕掛けが用意されています。作者としては、ツムギの人瘤病を作中で――サラ以外の人物に対して隠蔽するのが第一(*2)で、実のところ読者を騙すのはついでのようなものでしょう。
実際、ツムギの“こんもり膨らんだ腹が露わに”
(67頁)なっても人瘤病だと発覚しない、すなわち、あたかも妊娠したかのように腹が膨らみ、しかも“顔”が表面に現れないというのは何とも都合がいい状態ですが、“男性の睾丸や女性の子宮に”
(31頁)脳瘤ができると大きく肥大することが示されており、よく考えられた設定といえるでしょう。しかも、その設定がツムギの病気の隠蔽だけでなく、後にバカトリックに使われるメメタロウの症状にもつながっているのが巧妙です。
“お腹が大きくなったツムギを見かけた”(47頁)こともあり、さらにハヤシ先生のいかにもな熱血教師ぶりも相まって、ベタベタのドラマ的な展開のような印象を与えるのがうまいところです。
もっとも、
“ヤブモトさんとこのお姉さん”(ヤブモトパルコのこと)に自身を重ねるツムギに、サラが
“九年前、学生でありながら赤ん坊を身籠った彼女が、どれだけ残酷な人生を歩むことになったか”(いずれも55頁)を思い浮かべるのはやや不自然――妊娠が直接の原因ではない――ですし、まだ妊娠だと思い込んでいるサラが
“何か月なの?”と尋ねたのに対して、ツムギがそのまま
“四か月だってさ”(いずれも54頁)と答えているのは、いささかあざとすぎるように思います(発症時期がわかるのか、またそれがわかって何の意味があるのか、ということも含めて)。
*2: 発覚すれば、パルコと同じように青年会に監禁されるか、あるいは早々に街を出る(ハヤシ先生が「こぶとり姉ちゃん」で働かせる)か、いずれにしても物語の展開が大きく変わることになる――例えば、ツムギ殺しの機会がなくなる――のではないでしょうか。
「13 サラ」ではサラたちの前に“カブ”が登場してきますが、これがカブ本人ではないことを示唆する手がかりとしては、ミカン先生についての“あいつはうちの客だったんだ”
(176頁)という台詞があります(*3)。カブが指摘するように“風俗に来る客なんてのは九分九厘が男”
(230頁)なのはいうまでもなく、また“ミカン先生=イモコ”ではあり得ない(*4)ので、“カブ”の仕事は風俗店ではないと考えるのが妥当でしょう。
最終的にはカネダ巡査が“カブとは別人”
(212頁)と明言していますが、その正体が直前の「15 カブ」で登場してくる、“短い金髪”
(176頁)の“カブ”と同じく“スポーツ刈りの金髪”
(201頁)である探偵のユシマ(*5)だということは、比較的わかりやすいのではないでしょうか。前述の“うちの客”
(176頁)という言葉も、ユシマの“知人の元教師から延々と愚痴を聞かされました(中略)ポッポさんを紹介しておきました”
(203頁)という話で説明がつきます(*6)。
ユシマが“カブ”を名乗ったのは、単に“虚言癖”
(132頁/212頁)というだけでなく、カブの名前を出して探りを入れようとしたということも考えられるでしょう。作者としては、もちろん読者を騙すのが狙いでしょうが、それによって「プロローグ」で死んだ探偵役をカブだと思わせ、“「カブ」のパートが脳瘤の視点に切り替わる”と読者に予想させることで、逆に「サラ」のパートの方に仕掛けてあるトリックを隠蔽するところまでを視野に入れた仕掛け――というのは穿ちすぎかもしれませんが。
“カブのような非感染者”(82頁)という記述との矛盾が生じるのも、手がかりとなります。
*4: ミカン先生の外見に関する描写は見当たりませんが、
“倒錯したサディスト”(12頁)のイモコに対して、ミカン先生は
“自分は他人に卑下されて当然だったと信じ込む”(152頁)状態です。
*5: 『人間の顔は食べづらい』に登場する由島三紀夫との関係が気になるところですが……。
*6: 中学生たちから話を聞いた“カブ”の、
“あいつが地元へ帰らなかったわけが理解できたよ”(179頁)という述懐も、ジンタを指していると見せかけて実はミカン先生のことだった……と考えたいところですが、海晴市への赴任を
“地元に恩返しができる”(39頁)と考えていたミカン先生は当てはまらないような。さりとて、ポッポ(ハヤシ先生)のことだとはなおさら考えにくいですし、面識がないはずのジンタでもなさそうで、よくわかりません。
その“カブ”(ユシマ)が、中学生たちから話を聞いて〈ツムギ殺し/“メメタロウ殺し”〉の犯人を指摘する一幕は、宿主と脳瘤による“一人(?)多重解決”もさることながら、本書の帯に“同じ手がかりから組み上げられる幾通りもの推理”
とあるように、それぞれの推理が同じ手がかり――メメタロウのジャージのポケットに入っていた頭痛薬――を糸口としているのが面白いところです。これはつまり、真田啓介氏の「書斎の死体/「毒入りチョコレート事件」論」(*7)でいわれるところの“証拠事実の解釈 (推論) の誤り”
が、多重解決の主な要因ということになります(*8)。
そして、頭痛薬に関する解釈の違いが生じるポイントはまず、薬局員が届けるのを断ったにもかかわらず、“メメタロウは頭痛薬をどうやって入手したのか”――これは何らかの形で犯人が持ち込んだということになりますが、そうなると頭痛薬のアルミシートに“なぜメメタロウの指紋だけが残っていたのか”(*9)が問題となります。これらはもはや、手がかりの解釈というよりもそれ自体が一つの“謎”というべきかもしれませんが、この二点をどのように考えるかが解決の分かれ道となっています。
“カブ”の推理 | 脳瘤Aの推理 | 脳瘤Bの推理 | |
---|---|---|---|
入手 | 犯人が手渡した | ジャージのズボンを入れ替えた | 犯人が手渡した |
指紋 | 犯人は指紋を残す心配がなかった | ― | 死体発見時にアルミシートを入れ替えた |
犯人 | 右の掌に火傷をしているウシオ | 自宅に戻る余裕がなかったクニオ | 入れ替えの機会があったミサオ |
否定 | 右手だけで犯行は不可能 | メメタロウの指紋が残らない | ― |
まず〈“カブ”の推理〉では、隠し階段によって容疑者を四人の中学生に限定し、さらにアリバイが成立するサリー(*10)を除外した上で、犯人がメメタロウに渡した頭痛薬に犯人自身の指紋がなかったのは、犯人の手に指紋がなかったから――すなわち、右の掌を火傷しているウシオが犯人とされています。
これに対して脳瘤Aは、ドアを開けてすぐに金槌を振り下ろすのは右手だけでは無理なので、“左手はポケットにでも入れときゃ、指紋を残す心配はない”
(3頁)という“カブ”の推理は間違いだとしています。しかしながら、“凶器やドアノブの指紋が拭き取られていた”
(179頁)うち少なくとも片方が、“カブ”のいうような“偽装工作”
(187頁)ではなく犯人が左手を使った結果(*11)だと考えれば、ウシオ犯人説を否定する根拠はなくなるでしょう。
続く〈脳瘤Aの推理〉では、メメタロウのジャージのズボンが解れていたことに着目し、犯人が犯行後にズボンを取り替えた――ジャージ姿であり、なおかつ帰宅して予備のズボンに替える時間の余裕がなかったクニオが犯人とされています。
この発想はなかなか面白いと思うのですが、脳瘤Bが指摘するように指紋の問題が完全に無視されているのが致命的で、明らかに成立しない推理といえます。
そして〈脳瘤Bの推理〉は、犯人が死体発見時に頭痛薬の存在に気づき、そこで頭痛薬をすり替えた――すり替えの機会があったミサオが犯人とするものです。〈“カブ”の推理〉でもそうでしたが、アルミシートに犯人の指紋が残ったのであれば現場から持ち去ればいい――そうしなかったのはなぜか、という推理がよくできています。
この推理は作中で否定されないまま終わりますが、そもそも死体発見の場面で、ミサオ自身がポケットの頭痛薬に一同の注意を向けた(157頁)わけで、すり替えの必要があるのならばわざわざそのようなことはしないのではないでしょうか。
これらの推理は、実際には起きなかった“メメタロウ殺し”をもとにしている点で(結果的には)完全に的外れですが、ここで起きている“カブ”の復活が、良性の人瘤病であれば頭にダメージを受けてもすぐには死なないことをあからさまに示し、メメタロウが生きているという真相につながる強力なヒントとなっています(*12)。(後に明らかになる)ジンタの体を生かしておくための脳瘤の奮闘や、“カブ”(ユシマ)が最終的には死んでしまったこと(*13)から、断言はできないようにも思われますが、最後にカブが指摘している“もがき苦しんだ痕跡がまるで見られない”
(241頁)ことまで考慮すれば、メメタロウが死んでいなかった蓋然性が高いといっていいかもしれません。
“そこで結論として言えるのは、偽の解決が生まれる原因 (すなわち多重解決のテクニック) は、①証拠事実の取捨選択の誤り、②証拠事実それ自体の誤り、そして③証拠事実の解釈 (推論) の誤りの3点 ――その中でも特に①と③――に集約される、ということである。”(「書斎の死体/「毒入りチョコレート事件」論」より)。
*8: 、〈脳瘤Aの推理〉は
“証拠事実の取捨選択の誤り”も含んでいますし、最終的には頭痛薬は事件に関係なかったことが明らかになり、ここでのすべての推理が
“証拠事実それ自体の誤り”によるものということになります。
*9: カブによる解決では、メメタロウ本人が
“自宅に立ち寄って、痛み止めを持ち出した”(248頁)と説明されていますが、指紋の照合はその後にすり替えられた死体の指紋をもとに行われるはずなので、アルミシートのメメタロウの指紋を拭き取って“スクーターのおっさん”の指紋をつけておく必要があります。
とはいえ、指紋に関する偽装工作はそれだけでは不十分――そのままでは、現場から“被害者”とは別人(メメタロウ本人)の指紋が大量に発見されることになる――なので、あまり意味がないような気もします。
*10: カサネ団地で悲鳴が響いた直後の場面、
“男たちは狐につままれたような顔で、怪物の皮膚に並んだ顔を眺めている。(中略)男たちは腑に落ちない表情であたりを見回し、ようやくこちらに目を留めた。/「いまの、お前の声か?」/「……違いますけど」/慌てて口を手で覆い(後略)”(150頁)という記述では、サリーの悲鳴ではないことを男たちが確認できたのかどうか、今ひとつはっきりしませんが、男たちがそれ以上サリーを問い詰めていないところをみると、サリーの返答に納得したと考えるべきなのでしょう。
*11: 現場の見取図(169頁)をみると、左手に金槌を持って右手でドアを開けるのが自然でしょうか。
*12: その意味で、“カブ”自身はまだしも脳瘤がその可能性に思い至らないのは、さすがにうかつにすぎるようにも思われます。
*13: ユシマの事務所でカブ(本人)が目にした
“海晴市の公立中学校で、二十代の男性の変死体が見つかった”(215頁)という記事は、“カブ”(ユシマ)の死を報じるものとしか考えられません。もっとも、これは頭の傷が原因でそのまま死んだとは限らず、口封じのためにカネダ巡査が止めを刺したということも考えられますが。
事件がややこしくなっている要因が、殺人事件の裏に隠れていたパルコを救う計画であることはもちろんですが、ジンタ自身を襲ったものも含めて予期せぬアクシデントの連続により、事件全体がさらに複雑な様相を呈しているのが見どころです。
まず、パルコが途方もない“怪物”として登場しているために、入れ替わりなどとても想定できなくなっているわけですが、しかし一方で、その異形が脳瘤の切除を繰り返すことで“人工的”に作られたという経緯がしっかり示されているのが秀逸。さらに、身代わりとなる人瘤病患者を手に入れるために、火事に乗じたイモコと“スズ”の入れ替え(*14)から始まっているのが周到――と同時にこちらについても、ジンタがイモコを知っていることを匂わせる“生理”
(13頁)という言葉など、いくつかの手がかりが用意されているところがよくできています。
ただし、手がかりの一つとされている、「こぶとり姉さん」の焼け跡の死体写真の様子――“焼け焦げた衣服が全身に張り付いていた”
(101頁)というのは、確かに手がかりとして有効ではあるものの、これで警察の目をごまかすのは不可能。というのも、単なる“顔のない死体”ではなく、少なくとも全身の脳瘤が焼け焦げた(ように見える)“すべての顔がない死体”でなければ“スズ”に見せかけるためには不十分だからで、衣服の下から脳瘤が見つからなければ死体が“スズ”でないことが露見してしまいます(*15)。
身代わりに仕立てた“スズ”とパルコの入れ替えはまず、青年会やカブの目の前でパルコを積み込んだドライバンごと、空のドライバンにすり替えるところから始まりますが、その直前にもう一つの入れ替わり――ジンタと双子の兄(カネダ巡査)の入れ替わりが派手に露見していることが、“煙幕”となっているところもあるのではないでしょうか(*16)。
ちなみに、“カブ”から話を聞いたユシマは、ジンタが知らないはずの“フナムシ”
(130頁)という言葉を手がかりに、駐在所のロッカーで見つかった“ジンタ”がやはり偽物だった――“双子の兄がジンタを殺した”と推理していますが、ユシマが見抜けなかったドライバンのすり替えを考慮に入れても、これを推理で否定するのは困難ではないかと思われます。ユシマの推理でも共犯者の存在が前提となっていた(209頁)ので、ジンタの死体が別のドライバンで運ばれても支障はなく、他に否定的な材料は見当たらないように思います。
それはさておき、別のドライバンで運ばれてきた“スズ”を咳嗽反応で暴れさせようとした(*17)ジンタ自身が、真っ先に命を落としてしまったのは何とも皮肉ですが、頭からの出血を止めるとともに気道に空気を取り入れてジンタの体を生かすための作業(*18)が、殴殺・絞殺・刺殺を重ねた念入りな殺害の様相を呈するのもまた皮肉。そして、後に“メメタロウ”(“スクーターのおっさん”)が“二重に殺された”ことが発覚し、一連の事件という印象が強まっているところもよくできています。
一方の海晴市では、(おそらくは)ドライバンのすり替えで団地に戻ってきたところで、脱走しかけたパルコ(*19)をハヤシ先生に目撃されるアクシデントが発生。ちょうど“ツムギ”の悲鳴が響いたことで、その死亡推定時刻によって目撃時刻が確定してしまうという危機に、事故死した“スクーターのおっさん”の死体を利用して(*20)、二重殺人事件に仕立てることで犯行時刻を前倒しする奇想が秀逸です。見かけの犯行時刻が勝手に(?)動かされたにもかかわらず、犯人のアリバイトリックがまったく影響を受けないのも見逃せないところでしょう。
「カブ」のパートと「サラ」のパートに共通する登場人物がいることは、誰しも予想するところではないかと思いますが、それがメインの事件とはほとんど関係のないポッポ/ハヤシ先生だという“外し具合”が面白いところです。バンドウ病による手の震え(12頁)を――サラの視点で父親の姿に重ねる(42頁)ことで――陰茎を弄る動き(!)に見せかけてあるのもすごいところですし、何より風俗店のマネージャーから中学校教師への意外すぎる転進は(壮大なのか何なのかよくわからない動機も含めて)想定しづらいのではないでしょうか。とはいえ、描写される人物像にはかなり似通ったところがありますし、ポッポがカサネ団地の“球根顔の野球少年”
(132頁)に言及している(*21)のが決定的です。
アクシデントはさらに続き、“スクーターのおっさん”の死体を運搬するのが間に合わないという大失態のせいで、メメタロウが殺されたふりをすることになりますが、体の上下を入れ替えて、脳瘤で肥大した陰囊を頭に見せかけて潰すという、何とも痛々しい壮絶なバカトリックには気が遠くなります(苦笑)。また、ミトンの伏線(28頁)もさることながら、“陰囊にボンドを塗ったポッポとは比べ物にならないくらい”
(247頁)と、冒頭のポッポの奇行(15頁)がある種の伏線(?)となっているのが何ともいえません。
ところで、「17 カブ」と「18 カブ」の間の出来事は豪快にカットされていますが、事件をなかったことにはできないでしょうから、パルコを別の場所に移動させておいて、“中学生たちを監禁してウシオを殺した“ハヤシ先生”(ポッポ)を、カブとカネダ巡査が取り押さえようとして争いになり、三人が負傷した”、といったところで収拾がつくでしょうか(*22)。監禁の前段階である中学校でのユシマの死は、事実そのままにウシオの仕業(過失致死?)ということで収められそうですが……。
“どことなくイモコに似ている”(214頁)若者だったのかもしれませんし、単純にジンタが嘘をついただけかもしれません)。
*15: “スズ”は、
“臍のあたり”(7頁)、
“背中”、
“腰”(いずれも8頁)など衣服で隠れる部分に脳瘤があり、それを見ているカブも当然覚えているはずです。衣服がどの程度焼け残っていたのかはわかりませんが、ジンタとしては脳瘤があるはずの部位を確実に焼いておく必要がある反面、衣服がすべて焼けてしまうようでは“スズ”に見せかける材料がなくなるので、かなり難しいところでしょう。
*16: すり替え後のドライバンに、
“座席にカーキ色のトレンチコートが脱ぎ捨てられていた”(129頁)と細工を施してあるのも巧妙です。
*17: 塁地区の青年会に“パルコが死んだ”と思わせるためとはいえ、完全にやりすぎ……どころか、「エピローグ」をみると完全に逆効果であったことがわかります。
*18: ジンタの脳が死んでも体はそのまま生き続けている――“ゾンビ”とは違う――のですから、カブが発見した際の
“腐った魚みたいな生ぐさい臭い”や
“濁った眼球”(いずれも165頁)というのは、明らかにおかしいのではないでしょうか。
*19: ここでパルコを連れ戻しているのはジンタの仲間たちのはずですが、そうなると
“いっそ死んでくれりゃ話は早いのにな”(150頁)という台詞は不自然で、ミスディレクションとしてもいただけません。
*20: しかしこれも実際にはあり得ない話で、“スクーターのおっさん”の死亡推定時刻が
“十三時半から十五時半までの間”(181頁)なのに対して、パルコの脱走騒ぎが目撃されたのは
“十六時前後”(244頁)――しかも、カネダ巡査が頭を悩ますのは騒ぎの直後ではなく、ツムギの死体が発見されて悲鳴の意味が明らかになってからなので、それまでの間“スクーターのおっさん”の死体が誰にも見つからないとは考えられません(駐在所の前は比較的交通量が多いはず)。
一方で、カブが駐在所からジンタを救い出してドライバンに戻った場面(129頁)では、“スクーターのおっさん”の死体が道路に転がっている様子がないので、まったく想像もつかない理由で仲間たちがいち早く死体を隠しておいたということかもしれませんが……。
*21: しかしこの場面のポッポの口ぶりは、あたかもカブと同行していたかのように
“球根顔の野球少年”で話が通じると思っている節があり、(“ハヤシ先生”の件を隠しておくつもりならば不注意すぎることも含めて)かなり不自然に感じられます。
*22: ウシオ自身が
“人殺しでもしないかぎり”(97頁)と口にしていますが、カネダ巡査らもさすがにかばいきれないでしょうし、“ハヤシ先生”に痛めつけられた中学生たちはなおさらです。
ポッポがカブに
“『こぶとり姉ちゃん』は存続させてほしいな。(中略)よろしく頼むよ”(227頁)と告げていることも、(傷がある程度治り次第)勾留されることを示唆しているように思われます……が、そうだとすれば入院中でも監視がつきそうな気もしますが……。
「エピローグ」の前半では、カブが解明を放棄したツムギ殺しの真相を、サラが解き明かします。もっとも、“カブ”と脳瘤の多重解決でウシオ→クニオ→ミサオと順番に犯人とされていったことで、(アリバイが障害になるとはいえ)残る一人が真犯人であることはおおよそ見当がつくでしょうし、サラが“女”を告発していることが明らかになると、“サラ≠サリー”という真相からアリバイトリックの概略に至るまで、ほぼ丸見えになってしまうきらいがあるのですが、それでもサラが律儀に(?)推理を展開していくあたりは作者らしいといえるかもしれません。
サラの推理では、カブの謎解きで明らかになった事実が新たな手がかりとして加わるのがポイントで、〈メメタロウが生きていた〉こと、そして〈“ツムギの悲鳴”が16時頃だった〉ことから、犯人はメメタロウが戸締りを確認する15時半以前に施設棟へ侵入したことになり、侵入から犯行までに30分の空白が生じて説明がつかない(*23)――したがって、ウシオ・クニオ・ミサオの三人が犯人たり得ないので、ついに残った一人、サリーのアリバイが問題になってくるという手順は妥当ですし、“ツムギの悲鳴”に見せかけて犯行時刻をずらすトリック(*24)であることも明らかでしょう。
ということで、サリーの体にできた脳瘤がサラの正体であり、脳瘤の視点で描かれた「サラ」のパートにはサラ=サリーと誤認させる叙述トリックが仕掛けられていたという真相が明かされます。良性の患者(*25)の場合は“脳瘤が成人に近い知性を持つ”
(36頁)という設定からすると、この種のトリックが仕掛けられることは十分に予想できるところかもしれませんが、それが単なるサプライズではなく、設定を生かした特殊なアリバイトリックの隠蔽に役立っているのが巧妙です。
外から見えなければどこに脳瘤があっても、悲鳴を上げさせる動作はさほど不自然ではないと思いますが、脳瘤の場所が口の中――舌であれば、完全に外から見えない状態で動かすことができるので好都合。また、“口元が透けて見えるほど生地も薄い”
(44頁)遮咳マスクを利用してサラ自身の視野を確保できる(*26)ことで、サラの視点での描写が極力不自然にならないよう工夫してあるのもうまいところです。
とはいえ、それでもやはり叙述がアンフェア気味になっているのは否めません。例えば“職員室へ向かった。”
(44頁)や“職員会議室を後にした。”
(47頁)などは、サリーと一体での移動(動作ではなく位置の変化)を表しているといえますが、“髪を押さえ込むように、きつくマフラーを巻いた。”
(47頁)や“インターフォンを鳴らした。ボタンを押してから”
(49頁)などは明らかに脳瘤には不可能な動作であって、その主体はサラではなくサリーですから、サラ視点の描写としてはおかしいのではないでしょうか(*27)。さらにアリバイに関わる悲鳴の箇所で、サラ自身が悲鳴を上げたにもかかわらず、“鼓膜を射抜くような悲鳴が響いた。”
(150頁)と、他人事のような表現になっているのは釈然としないものがあります。
なお、この“鼓膜を射抜くような”
や、後の“カサネ団地で耳にした叫び声が、耳の奥でよみがえった。”
(185頁)といった表現は、いささか悩ましいところです。“切れ長の目、潰れた鼻、でこぼこの歯と三拍子揃った(中略)顔”
(9頁)という描写では、脳瘤に“耳がない”ようにも思われる反面、会話が成立することから聴覚があるのは確実で、描写されていないものの脳瘤には(鼓膜も含めて)“耳”がある、もしくは宿主(サリー)の聴覚を共有している、といった可能性を考えると、脳瘤には不可能とまではいいきれないところでしょうか。
サリーが親友だったツムギを殺したのみならず、ジンタが命をかけて守ったパルコを焼き殺す(ことが示唆されている)のは、その動機も含めてショッキングですが、“主人公”をつとめてきたサラが目を潰される無残な結末もまた――いかにも作者らしいとはいえ――強烈です。
ところで、サラは“あなたが捕まるのは時間の問題”
(253頁)とサリーに告げてから、それを納得させるかのように丁寧に推理を述べていますが、その推理は前述のように〈メメタロウが生きていた〉ことと〈“ツムギの悲鳴”が16時頃だった〉ことから出発しているので、警察が同じ結論にたどり着くためには、少なくともジンタの計画がすべて公にされることが前提となります。ところが、そうなるとジンタはもちろんカネダ巡査にとっても明らかに都合が悪いわけですから、カネダ巡査はあくまでも“ツムギとメメタロウの二重殺人事件”で押し通そうとするはずで、とても“時間の問題”とはいえないでしょう。
もっとも、サラの口ぶりからすると捜査は依然として継続中のようで、前述のように一応は成立しそうなウシオ犯人説で決着したわけでもない――となると、カブが解き明かした真相を知っている中学生たちが、容疑者として(おそらくは)厳しい取調べを受ける中で、知り得た真相(メメタロウが生きていることなど)を漏らしてしまうおそれもありそうですが……。
*24: “悲鳴”の場面からの空白の時間帯を示す、
“三十分後”(152頁)という記述が心憎いところです。
*25: 良性の人瘤病患者が
“日本の人瘤病患者の一割ほど”(36頁)とされている割に、メメタロウ、ユシマ、ジンタ、そしてサリーと四人も登場するのは、やや多すぎる感もないではないですが。
*26: 実際のところどうなのかはわかりませんが、外からは口の中の脳瘤が見えず、内からは外の様子が見える――というのは、明るさの違いも考慮すれば何とかなるのかもしれません。
*27: 設定では
“個々の脳瘤が動かせる筋肉も限られており、肩の脳瘤なら腕を動かせる程度”(10頁)とされているので、サラが手足までコントロールできるとは考えられません。
あるいは、サラの視点からサリーの動作を描写したものであって、“サリーが”という主語が省略されている、と考えることもできるかもしれませんが、例えば
“ボタンを押してから、もし本当にツムギが妊娠していたら――という不安が胸をよぎる。”(49頁)という文章が、
“(サリーが)ボタンを押してから、もし本当にツムギが妊娠していたら――という不安が(サラの)胸をよぎる(←比喩)。”を意味しているというのは、さすがに無理があるのではないでしょうか。
前の段落で引用した文章については、“ボタンを押した”のも“不安が胸をよぎった”のもサリーだった――三人称に見せかけたサリーの一人称(主語を省略してある)という解釈も不可能ではないかもしれませんが、他の箇所で
“サラはうんざりした気分で(中略)を感じていた。”(39頁)と、サラの内面まで描写されているので成立しません。任意の登場人物の内面を描写できる、いわゆる“神の視点”だと考えるべきなのかもしれませんが、これだけ主語が省略されるともはや地の文を信頼できないような気が……。
「エピローグ」の後半ではさらに、パルコの身代わりとして火災で死んだ人瘤病患者(ジンタの説明では“スズ”)が、実際にはカブの妹・ナオだったことが判明します。“妊娠したことのないナオ”
が“母乳”
(いずれも37頁)を出しているのはあからさまな矛盾ですが、この時点ではその“使い方”はまったく予想不能で、してやられた感があります。また、ジンタがナオとスズを取り違えそうになった顛末(79頁)が伏線になるとともに、その前にすでに取り違えられていたことを隠蔽するのに一役買っているところもあるように思います。
夢に登場するナオの伏線がまた秀逸で、ちょうど“「こぶとり姉さん」が火事で店を畳んだころから”
(99頁)という時期、そして“――たすけて。殺される。”
(89頁)という言葉――しかもそれが、“パルコ”が焼死しかけているところでカブの耳に響いた(161頁)(*28)その後は、“この日の夢に”
(163頁~164頁)どころか“ナオはすっかり夢に姿を見せなくなっていた”
(213頁)という状態に至り、ナオの運命を鮮やかに暗示していることがわかります。晴天霹靂の真相はもちろんのこと、おそらくはその“伏線”に気づけなかったことにも衝撃を受けたカブが、“ナオへの愛情は紛い物だったのだろうか”と自問しながら命を落とす結末は、何とも印象深い幕切れとなっています。
しかし……死んだ人瘤病患者のDNA鑑定を行った結果、カブとの間に“血縁関係があることが分かりました”
(262頁)とカネダ巡査が連絡してきた――という一連の流れは、カブが手がかりを拾い集めて自力で真相に思い至る、ミステリ的な演出を意図したものであることは理解できますが、(1)“カブ”の血縁者だと判明していること(直接ナオだと判明してはいない(*29)こと)、(2)その情報がカネダ巡査に伝えられていること、の二点には大いに疑問があります。
まず(1)について、DNA鑑定は複数の試料を比較して関係の有無を調べるものですが、捜査担当者が何の当てもなしにカブの試料を入手して調べるはずはない(*30)ので、警察が利用できるデータベースにカブのDNA型が登録されていたということになります。が、“自分が警察に捕まったら、誰がナオを助けるのか。”
(161頁)という独白をみると、カブが事件を起こした結果として警察のデータベースに登録されているとは考えにくいでしょう。そして、“この世界”では全国民のDNA型がデータベースに登録されている、という可能性は、ナオはもちろんスズやイモコの場合を考えても否定できます(*31)。ということで、このあたりの経緯は正直よくわかりません。
また(2)の方はまず、仙台での騒動が海晴市とは無関係ということになっていると考えられる――というのも、患者の身元が報道されなくても塁地区の青年会には当然“わかる”はずなので、ジンタらがわざわざ身元を捜査担当者に伝える理由はありませんし、むしろ“人瘤病ウイルスの撲滅宣言”
(24頁)の手前、海晴市側の人間としては患者が“海晴市のヤブモトパルコ”だと知られては困るからです(*32)。そしてそうなると、“パルコとは別人だった”という趣旨の連絡でもないのですから、カネダ巡査のところに連絡が来るとは考えにくいものがあります。
……といいつつ、カブが正式に(ポッポが起こした)事件の被害者として扱われていれば、事件後に海晴市の病院に入院したことを警察が把握している可能性は高いので、その場合はカブに関する連絡が――カブとナオの居住地である(はずの)仙台だけでなく――海晴市の警察に届くこともあり得るでしょうし、ちょうど病院に来ていたカネダ巡査(*33)が窓口になってもおかしくはない……かもしれません。
“自分が警察に捕まったら、誰がナオを助けるのか。”(161頁)に始まるカブの思考に続いていくことで、“ナオの声が響いた”原因があくまでもカブ自身の危機であるかのようにミスリードされるのが巧妙です。
*29: ナオだとわかったのであれば、カネダ巡査の台詞が
“彼女とあなたに血縁関係があることが分かりました”(262頁)ではなく、
“彼女はあなたの妹のナオさんでした”などのようにストレートな内容になるはずです。
*30: ドライバンは二度すり替えられたのですから、カブが乗り捨てたドライバン(202頁)はジンタが借りたもの(80頁)で、それが患者を運んだものだとわかれば「こぶとり姉ちゃん」まで捜査の手が届く可能性はありますが、「こぶとり姉ちゃん」が人間ヘルスであることから、患者が従業員の肉親だと疑われることはないでしょう。
*31: ナオがデータベースに登録されていれば直接身元が判明しますし、スズとイモコの場合も“顔のない死体”が成立しなくなります(そもそもそのような制度があるのならば、ジンタもDNA鑑定であっさり見破られる危険を冒して“顔のない死体”を仕掛けようとはしないでしょう)。
*32: 唯一、パルコの伯父のヤブモト氏が騒ぎ立てるおそれがありますが、さすがにジンタが話を通しているのではないでしょうか。
*33: 表向きは、入院している弟・ジンタの見舞いという説明で通用するでしょう。
……ところで、よく考えてみるとジンタはなぜ入院しているのか(頭の傷だけなら入院の必要はないのでは?)、そして入院しているにもかかわらず、なぜクライマックスでカサネ団地に現れたのか、またまた気になるところです。
2016.10.14読了