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黒と愛/飛鳥部勝則

2010年発表 ハヤカワ・ミステリワールド(早川書房)

 本書の仕掛けでまず目を引くのはやはり、「亡霊圏」に登場する“康彦”――康彦涼子を桜井康彦だと誤認させる叙述トリックです。ミステリファンの多くが一度は考えたことがあるのではないかと思われる、“名前のような名字”を使った人物誤認トリックですが、さすがに“康彦”が名字だとは想定外*1で、いささか強引すぎる仕掛けには苦笑を禁じ得ません。もっとも、康彦涼子を性同一性障害と設定することで、一人称の語りを偽装してある――自称の代名詞が“俺”なのはもちろんのこと、固有名詞でも“涼子”という(女性らしい)名前ではなく名字の方を使うことに説得力がある――ところはよくできていると思います。

 しかし注目すべきは、人物誤認トリックの実にユニークな使い方「奇傾城殺人事件」のラストで“探偵”亜久直人が犯人は“康彦”だと指摘した、その後に人物誤認トリックが用意されているのが面白いところで、「亡霊圏」の冒頭に“俺――康彦が、蒲生を殺すことにしたのは”(89頁)とあることで、犯人自身の一人称によって亜久の解決が保証された――と見せかける仕掛けになっています。結果として、読者は少なくともフーダニットに関しては完全に“終わった”ものとミスリードされてしまい、“真犯人”の存在が強固に隠蔽されることになります。

 実のところ、「奇傾城自殺事件」の中に“放送作家 桜井康彦”が“登場”している(154頁)こと、ひいてはそれが「亡霊圏」の語り手である“康彦”にはそぐわないことが、仕掛けの存在をうかがわせる大胆な手がかりとなってはいるのですが、さりとてスタッフの中に「亡霊圏」の“康彦”に該当しそうな人物は他に見当たらない*2ため、人物誤認にまで思い至るのは不可能に近いのではないでしょうか。同様に、「破獄」に至って示門黒が、さらには亜久自身が“桜井康彦犯人説”に疑義を呈しても、錯誤の所在に見当をつけることは困難でしょう*3

 桜井康彦の無残な死をきっかけに“氷のイゾルデ”の消失に光が当てられ、その事件の関係者だった“康彦”の正体が明かされるという流れも見事。そして、“真犯人”の康彦涼子が密室を作った理由――幽霊の存在を否定するためという逆説的な動機が非常に強烈です。何せ舞台が他ならぬ〈奇傾城〉ですから、亜久が解決にあたって挙げた“自殺に見せかける”・“アリバイ作り”の二つ以上に、定番の“幽霊の仕業に見せかける”が挙がってしかるべき*4ところ、完全に逆向きの思考は斬新なものに感じられますし、(作中でも示門黒が似たような指摘をしていますが)トリックが見破られない限り目的が達成されないという不条理さがまた何ともいえません。

 その動機からすれば、復員兵の幽霊を想起させる小刀が現場に残されているのは確かに不自然で、「お天気の話」で明かされる最後の真相には納得。とはいえ、示門黒を楽しませるためというとんでもない動機にはさすがに仰天させられるとともに、“氷のイゾルデ”や数々の幽霊譚のもとになった事件がすべて岸智史の犯行だったという鮮やかな収束に脱帽です。

*

 なお、本書の前日談にあたる『ラミア虐殺』を読んだ方はお分かりのように、(以下、一部伏せ字)“杉さん”の変身も含めて「脳内の世界(黒)」で描かれた出来事は(作中の)現実だと考えられますが、崔川真二によって“合理的な説明”がつけられているのはまだしも、あえて“脳内の世界”という章題が選ばれているところに、作者の“ある狙い”がうかがえます。つまり、『ラミア虐殺』を読んでいない読者に対しては、悪夢のような“地獄絵図”を幻想――いわば“夢オチ”だとアピールし、それをエクスキューズとして思う存分趣味を暴走させたのではないかと思われるのですが、穿ちすぎでしょうか。(ここまで)

* * *

*1: “名前のような名字”の有名人の一人、漫画家・安彦良和氏(→Wikipedia)がネタ元ではないかと思われますが、有名人だけにそのまま“安彦”を使えば見抜かれてしまうおそれがあるため、別の漢字にしてみた、といったところではないでしょうか。
 ちなみに、実に10万種の名字が掲載されているという「全国の苗字(名字)」で検索してみましたが、“康彦”という名字はないようです。
*2: 亜久直人と崔川真二は名前からして“康彦”ではありませんし、名前が明かされない“杉さん”は“蒲生のブレーン”“放送作家のまねごと”(93頁)に当てはまりません。
*3: ここに至っても亜久の推理の詳細が伏せられていることも、それに一役買っているといえるでしょう。
*4: 亜久がこれを挙げていないのはいささか不自然ではあるのですが、最後の真相がこれに近いことを考えれば、致し方ないところかもしれません。

2010.09.29読了