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  4. 眩暈を愛して夢を見よ

眩暈を愛して夢を見よ/小川勝己

2001年発表 角川文庫 お45-4(角川書店)

 本書のネタバレ感想を書くにあたって、コーヒー猫さん(「A sequel to the story」)による「小川勝己「眩暈を愛して夢を見よ」ネタバレ」を参考にさせていただきました。ここに感謝いたします。


・「第一部」

 本書の「第一部」「第二部」は、〈ぼく〉・〈おれ〉・〈わたし〉の視点で描かれた三つのパートで構成されています。特に〈おれ〉と〈わたし〉は名前も出てこないので、叙述トリックなども疑われるところですが、とりあえず「第一部」の時点では素直に読む限り

  • 〈ぼく〉が柏木美南の後輩であり、〈おれ〉は“中学二年のとき”“同級生だった”(215頁)ので、〈ぼく〉と〈おれ〉は別人
  • 〈おれ〉は〈ぼく〉と同様に柏木美南の行方を探しているので、〈ぼく〉と〈おれ〉は(おそらく)同時期
  • 「4」で〈ぼく〉は蓬田一郎に“どんぐりころころ殺人事件”を知らされているので、〈ぼく〉と〈わたし〉は別人かつ同時期

ということで、叙述トリック――人物に関するトリック時間に関するトリックも――は仕掛けられることなく、単純に三人の視点から同時並行で物語が進んでいるように思われます。

・「第二部 6」~「第二部 VII」

 「第一部」からの流れを大筋で引き継ぎながらも、「6」では〈ぼく〉が柏木美南の原稿「DISILLUSION」――〈おれ〉が登場する「一」そのまま――を入手する一方で、「七」では〈おれ〉が須山隆治の原稿「どんぐりころころ」――〈ぼく〉が登場する「1」そのままの内容――を発見するという“超展開”。つまり、〈ぼく〉のパートと〈おれ〉のパートがいずれも、もう一方のパートの作中作であることが示唆されています。

 それぞれの作中作がどこまで書かれているのかは示されていませんが、〈ぼく〉と〈おれ〉がそれぞれ原稿を発見するところまでしっかり書かれて“……〈ぼく〉のパート>〈おれ〉のパート>〈ぼく〉のパート>〈おれ〉のパート>〈ぼく〉のパート……”のように入れ子状態になっているとすれば、どちらのパートも作中の“現実”をリアルタイムで(?)描写したものではない――“そういうテキスト”であるという蓋然性が高くなってきます*1

 そしてそうなると、「第一部 三」で〈おれ〉がテキストの信頼性に疑念を投げかけている*2ことが、非常に暗示的であるように感じられます。

・「第二部 8」

 “どんぐりころころ殺人事件”の唐突な“解決篇”では、蓬田一郎によって〈ぼく;須山隆治〉=〈わたし;柏木美南の人格〉であったことが示唆されています。とはいえ、かの有名な某作品*3を思わせてニヤリとさせる認識トリック(?)も含めて、あちらこちらにいささか強引なところがあるのは確かで、「第三部」での軽部まいの指摘を待つまでもなく、それが“偽の解決”であることは予想できるのではないでしょうか。

 にもかかわらず、〈ぼく〉がたやすくその“解決”を受け入れ、ベランダから飛び降りるという行為に及んだのには驚かされますが、しかし「第三部」で〈おれ〉が“自分の死の瞬間をノートに書き記すなんて芸当が、どこの世界の人間にできるんだ?”(499頁)と指摘しているように、“ぼくはベランダに飛び出し手摺に足を乗せるとそのまま勢いよく宙に跳ねあ”(437頁)という箇所まで記述された文章が、当の〈ぼく〉=須山隆治自身によって書かれたものでないことは明らかで、すべてが“何者かの手によるテキスト”だという印象がますます強まります。

・「第三部 9」~「第三部 10」

 ここで物語は一転して、軽部まいが〈ぼく〉=須山隆治の残した手記を読み解くメタミステリ的な展開となりますが、前述の“入れ子状態”などから本書の「第一部」「第二部」が一旦テキスト化された物語であることが念頭にあれば、この展開を受け入れるのはたやすいはず。実のところ、本書『眩暈を愛して夢を見よ』の読者と軽部まいは、(ほぼ)同じテキストを読んでいるという意味で、立場を同じくしている――もちろん軽部まい自身が手記の中に登場しているという違いはありますが――ともいえるように思います。

 ここで、本筋とどう関わってくるのかわからなかった柏木美南による作中作――「犬」・「化粧」・「退職後の事情」が、軽部まいの推理の手がかりとされているのが巧妙ですが、それも含めて、フクさん(「UNCHARTED SPACE 国産ミステリ小説レビュー」)の感想で指摘されている“真相を読み解く鍵は、書かれていた内容よりも書かれていない内容、ないし書かれているけれど不十分、不自然な記述による内容によって構成されている”点が注目すべきところで、軽部まいの謎解きを通じて本書『眩暈を愛して夢を見よ』の読者も同じように、書かれていない“現実”を本書の「第一部」「第二部」外側に――読者自身と同じレベルに――想定せざるを得なくなるのではないでしょうか。

 〈わたし〉のパートが、軽部まいが後から手記に挿入したという真相も面白いところで、「どんぐりころころ」に見立てた“どんぐりころころ殺人事件”の再現――いわばメタ見立てになっているのがユニークです。が、この部分でも“次は小沢克己だ(第一部II)。”(481頁)のように注釈が入っていることで、この「第三部」もまたテキストであることを主張しているといえるのかもしれません。

・「第三部 11」

 軽部まいと〈おれ〉が出会い、ついに“真相”にたどり着くことになりますが、やはり(その時点では存在しない)“笠井潔『天啓の虚』からの引用文”(490頁)“手記に出てくる認知症って言葉は、一九九九年現在、この日本に存在しない。”(498頁)といった、作外の現実との齟齬が手がかりとされているのが興味深いところで、前述の趣向をさらに推し進めて本書の読者が存在する現実と地続きになっているような印象が生み出されています。

・「エピローグ」

 「プロローグ」からそのままつながってくる「エピローグ」では、柏木美南が自殺したことが示されています。結局のところ、物語全体の構造としては、「プロローグ」「エピローグ」だけが“作中の現実”であって、「第一部」「第三部」は柏木美南の見た夢”だということになるでしょう*4。そして最後の最後に置かれた鬼畜な会話が、何ともやりきれないものを読者の胸に残します。

 ところで、この「エピローグ」のうち北口老人の話については、“皮膚も、肉も、骨も、(中略)完全に融合していた”(528頁)というあたりなど、軽部まいがシナリオの発想元として挙げているグレッグ・ベア『ブラッド・ミュージック』を“サンプリング”したようなところも見受けられますが、“柏木美南の見た夢”であったはずの「第三部 11」のラストシーンそのままであるところをみると……“柏木美南の見た夢”が“現実”へにじみ出していることが示唆されているのかもしれません。

*1: 一見するとメタミステリの名作、(作家名)竹本健治(ここまで)(作品名)『匣の中の失楽』(ここまで)を思わせるところがありますが、実態はかなり違っているというべきでしょう。
*2: “あんたがテープじゃなくて、わざわざ文書にして持ってきたってことはだ、考えようによっちゃ、こいつらの話をあんたが好き勝手に改竄して、あんたがおれの耳に入れたい話だけを聞かせようとしたとも勘繰れるわな”(174頁)
*3: いうまでもないかと思いますが、(作家名)京極夏彦(ここまで)(作品名)『姑獲鳥の夏』(ここまで)です。
*4: この構成そのものは、某メフィスト賞作家(作家名)乾くるみ(ここまで)(作品名)『塔の断章』(ここまで)に通じるところがありますが……。

2011.08.06読了