聯愁殺/西澤保彦
本書の最も重要なポイントは、ミステリ作家の氷川透氏による本書の“解説”(特に(追記)の伏せ字部分)に的確にまとめられています。以下、そこから一部引用してみます。
ところがこの作品がやったことと言えば……まず、問題篇が2、解決編が8、みたいなアンバランスな構造を実現させた。そこでアリバイとして使われたのが、バークリーだのデクスターだのといった先例を巧みに(風評として)用いることによるミスディレクションです。小説のほとんどが解決篇であり、そこでは終始ああでもないこうでもないといった推理合戦が展開されているんですよ、という図式(これはこれで、ほんとに実現させたらものすごいことですが)を読者に信じさせた。しかしその実、裏でおこなわれていたことと言えば……解決編ではじめて重要な情報を出しつつ、「本格」のスタイルを守るという離れ業なのです。
この作品の見かけ上の「問題篇」と「解決篇」はもろともに、より上位の「本格」における「問題篇」として機能しています。それに対する「解決篇」も最後にちゃんとある。形式主義的に言えば、これは文句なしに「メタ本格」の達成です。こんなもの、前例を知りません。だから、この作品は凄い。
(「zatsubun_2002.04」より;原文は伏せ字)
つまり、見かけ上はせいぜい(双侶刑事によって事件の概略が説明される)「第二章 愁」までが「問題篇」であり、「第三章 想」以降が「解決篇」という形になっているにもかかわらず、実際には「第九章 解」までが“真の「問題篇」”であり、〈恋謎会〉がお開きになった後の「第十章 殺」こそが“真の「解決篇」”なのです。これは、まさに氷川透氏がいうようにアントニイ・バークリー『毒入りチョコレート事件』の形式そのものをミスディレクションとした、非常にユニークな仕掛けです。
実際には、『毒入りチョコレート事件』でも個々の“解決”を通じて推理の材料が追加されていくわけで、その部分に関しては“「解決篇」と見せかけた「問題篇」”といえなくはないかもしれません。しかし本書では、“見かけの「問題篇」”で提示される謎が“犯人はなぜ一礼比梢絵を殺そうとしたのか?”であるのに対して、“真の「解決篇」”で解き明かされるのはより上位の謎――真犯人を含めた連続無差別殺傷事件全体――であり、“見かけの「問題篇」/「解決篇」”と“真の「問題篇」/「解決篇」”との間に明確なギャップが設定されている点で、やはり例を見ない仕掛けだといえるのではないでしょうか。
“見かけの「解決篇」”において、“真の「問題篇」”のための“手がかり”が、〈恋謎会〉の面々の推理の中で提示されていくのはもちろんのこと、それらの推理を否定する反証という形でも示されているところが見逃せません。加えて、視点人物として推理の場に同席する一礼比梢絵の思考が読者に対しての伏線として示されながら、それが逆に読者をミスリードする“罠”となっている――主に、連続無差別殺人の真犯人として“真の解決”のほぼすべてを知りながら、“見かけの解決”(なぜ自分が狙われたのか?)を知らないという立場による――ところが非常に秀逸です。
口羽公彦が企図した連続無差別殺人の真相は、“地元新聞の読者コーナーへの投稿者”というミッシングリンクをダミーとして、真の標的である舎人浩美をその中に紛れ込ませようとした、というものです。しかし事件全体としてみればダミーであっても、“なぜ一礼比梢絵を殺そうとしたのか?”だけをクローズアップすれば、やはりミッシングリンクがテーマだといえるでしょう。
ちなみに、作中では修多羅厚がミッシングリンク・テーマの作品に関して“被害者全員に何か隠された共通項がある場合と、そして犯人がほんとうの標的を犠牲者の中に紛れ込ませる意図をもって大量殺人に及ぶ場合とがあり”
(59頁)と述べていますが、アガサ・クリスティの(以下伏せ字)『ABC殺人事件』(ここまで)に代表される(*1)後者のパターンは、実際には被害者の共通性はさほど重要ではないというだけでなく、むしろ被害者の共通性を(レッドへリングとして)積極的に強調する必要がある(*2)のですから、ミッシングリンク・テーマの一部として扱うのは個人的には抵抗があります。
ついでにいえば、ここでは有名な作例として“横溝正史の『悪魔の手鞠唄』”
(59頁)が挙げられていますが、この作品(正しくは『悪魔の手毬唄』)をミッシングリンクの例として挙げるのは、色々とまずい気がするのですが……閑話休題。
そのミッシングリンクに気づいたきっかけを、矢集亜李沙は“どうも見慣れた字面の名前があるのね。架谷とか、寸八寸とか。”
(168頁)と述べています。特にファンにはおなじみの西澤保彦の“珍名趣味”が、本書ではミステリ的にうまく生かされているところに苦笑を禁じ得ません。
本書の仕掛けの中で目を引くのが、「第一章 動」に仕掛けられた、梢絵が殺されかけるパート(17頁2行目まで)と警官たちが捜査を行うパートとを同じ日の出来事だと誤認させる叙述トリック(「叙述トリック分類」の[B-1-2]日時の関係の誤認;[表7-A]の例)です。実のところ、視点の切り替えを利用したこのトリック自体は定番といえるものですが、重要なのはその中で場所も誤認させている(場所の違いに気づかせない)点です。
梢絵がマンションのすぐ前の道路でゴミ袋を目にしてから、“あれこれ考え込む梢絵は、周囲にまったく注意を払っていなかった。惰性で自室の前へ辿り着く。”
(11頁)というあたりが非常に巧妙で、ゴミ袋をきっかけとしたとりとめのない思考に描写を集中させることで梢絵が階段を(もしくはエレベーターで)上る描写を自然に省略し、実際には〈コーポラス欅〉の四階にある“自室”を、〈めぞんフォルテ〉の一階の部屋だと見せかけているのです。
架谷耕次郎に対する殺意が先ではありますが、自分が殺されかけた理由と犯人の身元を明らかにするために、犯人(口羽公彦)の計画を引き継いで連続無差別殺人を決行するという、梢絵自身の動機が実に壮絶。そして、ついに口羽公彦の動機を知った梢絵の怒りは、双侶に真相を見抜かれたくらいで止まることはなく、結末ではどこまでも“聯{つら}なる”新たな殺人が幕を開けています。何の落ち度もないまま苛酷な運命に翻弄された末の、簡単に“狂気”と切って捨てることのできないその衝動は、何ともいえない読後感を残しています。
*2: ケース・バイ・ケースではあると思いますが、少なくともレッドへリングである限りは表に出さざるを得ないのですから、“ミッシングリンク”とはいいがたいでしょう。
2008.07.31読了