本書には、大別すると4つのネタ――1.鮎田冬馬の正体、2.二つの館、3.〈黒猫館〉の所在、4.“黒猫館の殺人”の真相――が盛り込まれています。
- 1.鮎田冬馬の正体
- 鮎田冬馬老人の正体が天羽辰也であることはかなり予想しやすいとは思いますが、鮎田冬馬が“全内蔵逆位症”であることを示唆する手がかりが「手記」の中にちりばめられているのが見事。さらに、〈黒猫館〉の絵に入れられた天羽辰也のサインが“AMOU”ではなく
“AMO” (ノベルス59頁)であること――名前のアナグラムを成立させる上で不可避――も、メタレベルの手がかりといえるかもしれません。
ついでにいえば、「手記」の中に登場する黒猫のカーロは、一度も他の登場人物に姿を見せていないようですし、日本に連れて来られたとも〈黒猫館〉に置き去りにされたとも考えにくいので、鮎田冬馬の目にだけ見える存在――天羽辰也が飼っていた黒猫の幻影である可能性が高いのではないでしょうか。
- 2.二つの館
- 中村青司が建てた、天羽辰也の別荘が二つあったという真相はなかなか強烈。作中では一貫して〈黒猫館〉のみがクローズアップされ、〈白兎館〉の存在はしっかりと隠されていますし、まさか『黒猫館の殺人』という題名でありながらその〈黒猫館〉が直接登場しないとは予想しがたいものがあり、「プロローグ」で描かれた“館”を〈黒猫館〉と誤認させる仕掛けも十分に効果を発揮しています。
鹿谷門実が指摘しているように、阿寒にある館(〈白兎館〉)と矛盾する記述が「手記」の中に周到に配置され、真相解明の手がかりとなっているところがよくできています。また、中村青司が天羽辰也を評した“どじすん” (ノベルス99頁)という言葉から“アリス”を連想すれば――そして「手記」の中の〈黒猫館〉が「鏡の国のアリス」で味付けされていることに気づけば、それと対になる「不思議の国のアリス」で味付けされた“もう一つの館”の存在に、早い段階で思い至ることも不可能ではないかもしれません。
ちなみに、このネタが(一応伏せ字)作中の解決場面で挙げられている(ここまで)某古典、すなわち(一応伏せ字)E.クイーン「神の灯」(ここまで)へのオマージュなのはいうまでもないかもしれません(*1)が、以下に両者を比較してみます。
(以下、“某古典”の内容に触れますので、ご注意下さい)
“某古典”の真相もやはり“一つだと思い込まされていた館が二つあった”というもので、その点で両者は共通しているといえます。が、“某古典”のメインの仕掛けが“二つの館”を“同じ館”だと誤認させるもの(人間でいえば“二人一役”)であるのに対し、本書ではあくまでも〈白兎館〉を〈黒猫館〉だと誤認させる仕掛け(いわば“なりすまし”)になっており、狙いが違ったものになっています。
また、“某古典”では(一応伏せ字)太陽の光(ここまで)を手がかりに二つの館の向きの違いが明らかにされますが、本書で二つの館の存在を明らかにするのはどちらかといえば間取りと装飾の違いが主で、“某古典”に類似した手がかりは(一応伏せ字)〈黒猫館〉の所在(ここまで)につながる、という形にアレンジされています。
(ここまで)
- 3.〈黒猫館〉の所在
- 本書の最大のポイントはもちろん“〈黒猫館〉はどこにあるのか”ですが、それが作中でも早い段階で指摘されている(ノベルス83頁)のが実に心憎いところ。仕掛けとしては、叙述トリックによる場所の誤認(→拙文「叙述トリック分類#[C-1-1]場所そのものの誤認」)ということになりますが、これが非常に巧妙です。
まず、登場人物による「手記」という体裁が取られているのが見逃せないところで、記述者である鮎田冬馬の目的からして場所の説明など余計なことを書かないのにも説得力があり、“作者→読者”というダイレクトな構成に比べるとアンフェア感は少なくなっています。そしてその上で、鹿谷門実が指摘するように様々な記述が巧みなミスリードとなっている(*2)のですが、〈白兎館〉の存在――とりわけ「プロローグ」で一行が阿寒にある館を実際に訪れていることが、これ以上ないほど強力なミスディレクションとして機能しています。まあいずれにしても、はるか遠く離れたタスマニア(*3)という凄まじい真相を想定するのは、さすがに困難でしょう。
これについても様々な手がかり/伏線が「手記」の中に配置され、解決場面で鹿谷門実によって列挙されています。“ガラスが蒸気で曇っていた” (ノベルス245頁)や“北向きの窓から(中略)太陽の光線が射し込む” (ノベルス247頁)のように、「手記」の舞台が南半球にあることをあからさまに示唆する指摘のタイミングがやや早すぎる感はありますが、これは致し方ないところでしょうか。
- 4.“黒猫館の殺人”の真相
- まず椿本レナの死について、現場にあった(シリーズ恒例の)秘密の通路がまったく使われなかったというひねくれた扱いには思わず苦笑。とはいえ、C.ディクスン『ユダの窓』に通じる“被害者と容疑者が閉じ込められた密室”でなければ成立しないもので、なかなかよく考えられていると思います。
そして麻生謙二郎の死については、氷を使った密室トリックそのものが陳腐なのは確かですが、冷蔵庫の故障という状況に加えて前述の叙述トリックによってそれがしっかりと隠蔽されているのが見事。その一方で、様々な密室トリックの可能性が鮎田冬馬の検証で徹底的に排除されているのも重要なところで、それによって密室を構成できる手段がただ一つに絞り込まれ、ロジカルなハウダニット/フーダニットとなっているのが非常に秀逸です。
結局、鹿谷門実は〈黒猫館〉を訪れることのないまま、物語は“失われた手記”で淡々と幕を閉じています。結果として〈黒猫館〉の物語が奇妙に現実感を喪失した頼りない存在となり、“鏡の世界”らしい印象につながっているように思います。
*1: あるいは、〈黒猫館〉・〈白兎館〉というネーミングも、“アリス”よりも先に (一応伏せ字)「黒い家」と「白い家」(ここまで)が基になっているのかもしれません。
*2: ついでにいえば、巻頭に付された 「黒猫館平面図」がさりげなく 北側を下にしたものとされ、館の向きに違和感を生じにくくしてあるのもうまいところです。
*3: 前作 『時計館の殺人』で、( “当地での代理人である足立秀秋氏” (本書ノベルス15頁)の兄である) “足立基春氏” が “オーストラリアのメルボルン” に住んでいる (『時計館の殺人』ノベルス152頁)とされていたのは、本書に備えた伏線だったのでしょうか。
2010.07.02再読了
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