火刑法廷/J.D.カー
The Burning Court/J.D.Carr
エピローグの趣向につながる本書の構成は、やはり非常によくできていると思います。
「第三部 論証」までに積み重ねられてきた様々な出来事により、超自然の“霧”にすっかり覆われてしまった事件に対して、「第四部 要約」で突然登場してきたゴーダン・クロスが合理の“光”を当て、物語は一旦現実的に収束します。
ところが、「第四部 要約」のラストでクロスが急死することで、現実的な解決は一応維持されながらも、再び混沌が顔を覗かせます。
そして「第五部 評決」と題されたエピローグでは、クロスが示した現実的な解決を完全に反転させてしまう、超自然的な“もう一つの解決”が提示されています。
松田道弘氏が解説で“ルービンの壷”に言及しているように、二つの解決はどちらが正しいのか判然としない(*1)まま共存し、まさに“ミステリとして読んでも怪奇小説として読んでも、両方ともきちんとつじつまが合う”
(338頁)、ミステリと怪奇小説が見事に融合した傑作となっているのです。
カーは本書以外では、超自然的に見える現象を合理的に解決するというスタイルをとっているため、他の作品をある程度読んでから本書を読めば、結末は一層衝撃的なものになるでしょう。とりわけ、クロスによる二つの消失事件の“解決”がおおむねよくできている(*2)ために、そこで物語が終わっても問題ないと思わされるのがうまいところです。
ダグラス・G・グリーン『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』で指摘されている(*3)ように、後の長編『仮面劇場の殺人』に本書の主人公エドワード・スティーヴンズが登場している(*4)ことは、超自然的な解決を否定する根拠となり得るかもしれません。が、マリーがいうところの“わたしたちの仲間になる”
(331頁)というのが、具体的にどういうことなのか定かではありませんし、本来であればすでに生きているはずのない人物が他にも『仮面劇場の殺人』に登場している((以下伏せ字)『囁く影』のフェイ・シートン(フェイ・ハモンド)(ここまで))ところをみると、カーが何も考えていなかった(苦笑)可能性も考えられるのではないでしょうか。
なお、小林泰三による「ロイス殺し」(『完全・犯罪』、及びJ.D.カー生誕百周年記念アンソロジー『密室と奇蹟』収録)では、本書でゴーダン・クロスが“わしがロイスを殺したとき……ついでに言っておくが、こいつは殺されて当り前なやつだったんだが……わしには完全なアリバイがあった……給仕も含めて二十人の人間が、デルモニコの店でわしが食事をしてたと証言してくれた。”
(281頁)と語っている事件の顛末が描かれています。興味のある方はぜひお読みになってみてください。
“超自然的な結末を持つ長篇”(同書185頁)と、すなわちエピローグのマリーの独白が“真実”だととらえているようです。しかし、クロスによる解決でも一応筋が通る上に、マリーの独白には裏付けがないので、やはりどちらが正しいともいえないのではないでしょうか。
*2: とはいえ、最後にオグデンが電話の件を否定している(324頁~325頁)ように完璧な推理とはいえないのですが、本書に限ってはそれが瑕疵とならない(“もう一つの解決”が用意されているため)のが面白いところです。
*3: 「付録三 『火刑法廷』の第三の真相?」(491頁)。ただし、ここで示されているのは“第三の真相”とはいい難いように思います。
*4:
“ヘラルド&サンズ社のエドワード・スティーヴンズと昼食を食べた。”(『仮面劇場の殺人』創元推理文庫版375頁)。
1999.12.30再読了
2008.08.06再読了 (2008.08.24改稿)