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疑惑の影/J.D.カー

Below Suspicion/J.D.Carr

1949年発表 斎藤数衛訳 ハヤカワ文庫HM5-10(早川書房)

 巻末の「訳者のノート」には、原題の『Below Suspicion』について“正しくは、“疑惑に値しない”とか“疑惑の外にある”という意味である。”(356頁)と説明されています。作中では、まず女中のキティについて“この娘は疑惑に値しないのだ”(306頁)とこの表現が持ち出されていますが、本題はやはりジョイス・エリスに対する“たいていの人は、きみがもう“疑惑の外”にあると思ってしまった”(340頁)という台詞です。つまり、巧みなミスディレクションによって真犯人が“疑惑の外”に置かれるという本書の仕掛けをストレートに表した題名であるわけで、ネタバレ防止の意味では『疑惑のというぼかした訳題でちょうどいいようにも思われます*1

 本書の仕掛けの根本は、独立した事件を“連続殺人事件”に見せかけることで真犯人を“疑惑の外”に置くものですが、いくつか思い浮かぶ前例と違って本書の場合には、さらに個々の事件についてもそれぞれミスディレクションが用意されているのが秀逸なところです。

 まずテイラー夫人の死については、若干怪しげながらも裁判で無罪の評決を得ているということもありますが、冒頭のジョイスの心理描写(27頁)に仕掛けられた叙述トリックが効果的。該当箇所の“ジョイスの心はどぎまぎして、二、三の関連した思いだけがぐるぐると回っていた。彼女は全く無実だった。実際にテイラー夫人を殺さなかったのだ。という記述は、テイラー夫人が勝手に毒を飲んで事故死したという真相を、さらに(解決の中でバトラーが説明している*2ように)ディック・レンショーがまだ死んでいなかったことを踏まえれば、アンフェアとはいえないのではないでしょうか。

 一方のレンショー殺害では、何といっても公判中のジョイスに完璧なアリバイが成立しているのがうまいところ。実行者は別人(女中のキティ)であるとはいえ、指令に忠実に従った結果なのは確かですから、主犯はあくまでもジョイスだというべきでしょうし、主犯たるジョイスの思惑をも超えた忠実さによって不可解な状況が生じているのが面白いと思います。

 編物用袋を使って“凶器”を持ち込むトリックは、本書以前のラジオドラマ(以下伏せ字)「あずまやの悪魔」(「黒い塔の恐怖」収録)(ここまで)にみられますが、本書ではゆすいで水を注いだばかりの水差しと毒薬入りの水差しをすり替えるというひねりが加えられ、より不可能性の高い状況が演出されているのが見事です。

 その毒薬入りの水が腐っていた*3という手がかり――フェル博士の実験結果(“もう二十四時間以上もそのテーブルの上においてあった(中略)水はクリスタルのようにすんでいた。(中略)「何もない、わしは喜んでそういうよ。全然何も見えない、とな」”(221頁))から、新しい水ではあり得ないことが確認される――は、鮮やかで面白いものだと思いますが、残念ながら水差しの水が“小さい泡でいっぱいだった。”(338頁)という肝心の描写がなく*4、先に引用したフェル博士の“全然何も見えない”という台詞を“裏読み”しなければならないのは少々いただけません。

 事件の背後には、『曲った蝶番』に通じる悪魔崇拝が存在していたわけですが、バトラーがジョイスに面会する冒頭の場面で“彼女の人さし指は、テーブルの上に垂直の線を一本引き、それからその下のほうに交叉するように横線を一本引いた。”(13頁)と、ジョイスが逆十字架を描くという手がかりがしっかりと、しかし注意深く読まないとわかりにくい表現で書かれているのが実に巧妙。ただし、ハヤカワ文庫版の依光隆氏によるカバーイラストには逆十字架や黒い蝋燭が堂々と描かれているため、勘のいい読者なら真犯人に気づいてしまうおそれがあるのがもったいないところです。

*1: 「訳者のノート」“『疑惑の影』というのは(中略)この訳語ですでに統一されているからという理由で、こうなった”(356頁)と記されているところをみると、初訳(早川書房〈世界傑作探偵小説シリーズ〉→ハヤカワ・ミステリ)の村崎敏郎氏の“功績”といっていいのかもしれません。
*2: “レンショーの死については――もし事件が起これば、新聞に出るに違いないのに――一言も出ていなかった。そこで、きみはあの水はもう流してしまったのだ、そして、それもありそうなことだと、信じてしまっていた。(中略)きみは自分が潔白だと思いこんでいた。罪の意識はきみの心には無縁だった。”(335頁)
 ただしその直後の、登場人物であるバトラーが認識できるはずのない叙述トリックを解説しているかのような、“法廷に出る以前も、法廷に出てからも、きみの心中を書きとめようとすれば誰でもやれたろうし、探偵小説風に見ても、きみの心中は全く公明正大なものだったろう。(同じく335頁)という台詞は、個人的にはやりすぎだと思います。
*3: 以前のネタバレ感想には“果たして毒薬入りの水が腐ったりするものなのでしょうか?”と書いていましたが、よく考えてみれば人間にとっての“毒薬”がすべて殺菌効果を有するわけでもないので、恥ずかしながらまったくの的外れでした。
*4: 気をつけて読み返してみても見つかりませんし、解決場面でのバトラーの回想(339頁)でもフェル博士の台詞が引用されるにすぎないので、やはりはっきりした描写はないと思われます。

2009.12.08再読了 (2010.01.14改稿)