猫と鼠の殺人/J.D.カー
The Seat of the Scornful/J.D.Carr
いきなり不利な状況証拠に取り巻かれた状態で事件の渦中に放り込まれるアイアトン判事ですが、自分が犯罪を犯す場合には“中途はんぱな計画を実行に移して、そのあとで、わたしは無実だ、〈状況証拠〉が不利なんだと泣きごとをいうこと”
(29頁)はしないと断言しているだけに、『ユダの窓』の主人公と同様に逆説的に無実であるかのように思えます。
モレルが“お守り”として持っていた銃弾の“消失”や、現場に残されていた出所不明の砂――さらには別荘の前の持ち主がカナダ人であったこと――といった手がかりをもとに、状況証拠が偽装工作であったことが暴かれていく過程はよくできていると思います。一方、フレッド・バーロウが浮浪者らしき人物を自動車で“ひいた”という、事件とは直接関係のなさそうなエピソードから、実際の犯行現場が判事の別荘でないことを導き出す推理も面白いと思います。
グレアム警部による、フレッドを犯人とするダミーの解決は真に迫ったもので、特に“殺害の時刻と場所を変更したいというなんらかの理由を持っていた人物は一人だけ”
(252頁)というあたりにはなかなかの説得力があります。そして、コンスタンスの目撃証言を最後の決め手として確定したかに思えるその“解決”が、フェル博士がいうところの“あまりにも複雑にして怪奇”
(284頁)な真相によって覆されるのには脱帽です。
発端で最有力容疑者となった判事ですが、状況証拠が偽装工作であり、実際の犯行現場が別荘ではなかったことが明らかになった時点で、最も容疑が薄くなっているともいえるわけで、頭を撃たれたモレルがすぐには死ななかったといういささか御都合主義な現象に負っているとはいえ、十分に意外な真犯人といっていいのではないでしょうか。
そして、判事を取り巻く不利な状況証拠が被害者によって作り上げられたものだったという、被害者と加害者の逆転の構図が非常に秀逸です。また、判事が単に裁く立場から裁かれる立場へと追い込まれるだけでなく、自ら侮蔑していたとさえいえる“不利な状況証拠に囲まれた容疑者”になってしまうという皮肉が何ともいえません。冒頭では倣岸不遜な態度で被告を裁き、自らの判断に絶対の自信を持っていた判事が、モレルの正体を見誤って殺人を犯す羽目になった上に、万全だったはずの計画が予期せぬモレルの“反撃”によって瓦解してしまう事態を経て、自身の判断力に関する自身を完全に打ち砕かれてしまうのも印象的です。
しかしながら、真相が明らかになった後の結末は、心情的に納得しがたいものになっています(*1)。判事の犯行を裏づける証拠がない(*2)のは確かですが、判事が白を切りとおすのであればともかく、自発的に書いた告白書を握りつぶすことまでするのはいかがなものでしょうか。“わしはグレアムに、トリックはうまくいかなんだと告げよう。”
(284頁)とあることから、フェル博士の一存であることは明らかなのですが、その意図は正直なところよくわかりません。
ところで、コンスタンスがプールでジェーンを襲ったエピソードは、実質的に物語の間を持たせる以上の意味はない(*3)ようなので、わざわざ盛り込む必要はなかったのではないかと思います。
“『嘲るものの座』の結末におけるフェルの行動は、いかなる理由があろうとも正当化することはできない。”(279頁)とされています。
*2: 拳銃の出所が判明しないのは間違いないでしょうし、コンスタンスが正直に証言をするとも思えません。
*3: コンスタンス自身がすぐに認めているため、彼女を犯人とミスリードする役には立たないでしょう。
2008.09.18再読了 (2008.10.04改稿)