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死時計/J.D.カー

Death-Watch/J.D.Carr

1935年発表 吉田誠一訳 創元推理文庫118-22(東京創元社)/(喜多孝良訳『死の時計』ハヤカワ・ミステリ182(早川書房))

 というわけで本書は、同じフェル博士ものの『死者はよみがえる』『死人を起す』)やディクスン名義(H.Mもの)の『五つの箱の死』などと同様に、犯人の意外性を徹底的に追求し、結果としてやりすぎてしまった感のある作品です。ただし本書の場合は、後述する仕掛けの性質から、犯人の意外性を念頭に置いて読んでいくと“守られた”犯人が見え見えになってしまうため、“意外な犯人”という趣向をアピールしづらいのが難しいところです。

 それはさておき、本書では真犯人であるボスクームを“守る”ために、五つもの仕掛け――(1)見せかけの殺人計画、(2)不可能状況、(3)“不連続殺人”、(4)ダミーの犯人、そして(5)叙述トリック――が用意されています。

(1)見せかけの殺人計画
 一度疑わせておいてその疑惑を晴らすことで、真犯人を容疑の圏外に追いやるというのは、ミステリではある種定番ともいえますが、真犯人が最初から被害者を殺すつもりだったことを認めてしまうというぬけぬけとした手法には苦笑を禁じ得ません。そしてその殺人計画が実行に移されようとするまさにその時、“誰かに獲物を奪われた”という状況が何とも強烈な印象を与えます。

 しかも、その(表向きの)殺人計画がいわばこけおどしだったというところまで、それも偽の消音器という裏付けまで用意して仕組んだ、ボスクームの凝った企みはなかなかのものといえるでしょう。

(2)不可能状況
 実際のところ、本書はカーにしては珍しいアリバイものなのですが、アリバイものであることは前面に出されていません。というのは、一般にアリバイトリックは“意外な犯人”との相性が悪いためで、例えば密室がほぼすべての容疑者にとっての不可能状況であるのに対し、アリバイは特定の容疑者にとっての不可能状況であり、トリックの解明は犯人が実質的に特定されることを前提とすることになります。裏を返せば、“アリバイもの”であることを謳った途端に“意外な犯人”の趣向がほとんど台無しになってしまうわけで、それを前面に出すことができないのも当然といえます。

 もっとも本書の場合には、真犯人であるボスクームが“室外での犯行の最中、室内で目撃されていた”という(ボスクームにとっての)絶対的な不可能状況となっており、“アリバイ”という言葉を持ち出すまでもなく一目瞭然に、ボスクームが安全圏に置かれているのがうまいところです。

 しかしながら、アリバイトリックそのものにはいささか問題があるといわざるを得ないでしょう。“秘密の通路”の存在は示唆されているのでまだいいとしても、目撃者であるスタンレーとヘイスティングズに“どこまで見えていたのか”が今ひとつはっきりしないために、解決場面での説明もかなりわかりにくく、どうしても釈然としないものが残ってしまうのは否めないところです。

 あらかじめ部屋の見取図が示されていればまだしも……とも思いますが、これは“そこ”にトリックが存在することを――ひいてはボスクームが真犯人であることを暗示することになりかねないでしょうし、そもそも本書の場合は月明かりと影、そして天窓からのヘイスティングズの視線が重要なので、見取図でうまく表現するのは不可能に近いのかもしれません*1

(3)“不連続殺人”
 (1)と(2)だけでもボスクームを“守る”には十分なようにも思われるのですが、本書ではさらに、本来は独立した事件であるデパートでの万引き殺人を組み合わせて“一連の事件”と見せかけることで、そちらの目撃証言から“犯人は女性”とミスリードする仕掛けも盛り込まれています。

 実際のところ、ボスクームが意図的に“デパート事件”を計画に取り込んだ――ミスリードのみならず、被害者をおびき寄せるという意味でも――わけで、二つの事件はまったくの無関係とはいえないのですが、しかし一般的な“便乗殺人”とは一味違い、“デパート事件”の目撃証人となったヘレン・グレイ当人が犯人だったというところも含めて人を食った仕掛けなのは確かですし、ハドリー首席警部が犯人逮捕を知らされる場面の何ともいえない味わい*2は印象的です。

(4)ダミーの犯人
 (3)によって“犯人は女性”という構図が示されていますが、ボスクームの――ひいてはカーの――狙いはそれにとどまらず、“ダミーの犯人”としてエリナー・カーヴァーに徹底的に疑惑が向けられています。これ自体がかなりやりすぎで、かえってミスリードの効果がなくなっているのは否めませんが(苦笑)、それでもボスクームがばらまいた偽の手がかりがハドリー首席警部の“誤った解決”を強固なものとし、終盤の見ごたえある“論告”と“弁論”につながっているのは見逃せないところです。

 そして、犯人が“なぜ大時計の針二本とも盗んだのか”が序盤の魅力的な謎となっていますし、その真相――凶器として大時計の針が選ばれた理由もなかなか秀逸です。

(5)叙述トリック
 そしてボスクームを“守る”仕掛けの極めつけが、本書の冒頭に仕掛けられた、ボスクームが犯人ではないと見せかける叙述トリック(?)です。
(前略)ボスクームが引き金を引こうとしていたのは、ただ時間つぶしのためだったとはねえ!……」
「ボスクーム? そいつが殺人犯人なんですか?」
いや、殺人をするつもりだったと認めただけなんだ。真犯人となると――こいつはいささか厄介な事件でね。(後略)
  (創元推理文庫10頁)
(前略)ところが、ボスコムは、時間を殺す(ひまをつぶす)という、たつたそれだけが目あてで引きがねを引こうとして――」
「ボスコムというと? 犯人がその人だつたんですね?」
いやいや、ボスコムは、人を殺すつもりのあつたことを認めただけじや。ホントの殺人犯人は――ああ、いや、まつたくイマイマしい事件じやつた。(後略)
  (ハヤカワ・ミステリ12頁)
 創元推理文庫版の戸川安宣氏の解説には、“読後、もう一度冒頭の部分に返って読み直してみるならば、作者がギリギリのところでトリックを仕掛けていることにお気づきになるだろう。”(創元推理文庫382頁)とありますが、贔屓目に見てもこれは完全にアンフェアといわざるを得ません。フェル博士の最初の台詞はいいとしても、冒頭の語り手である“わたし”の質問があまりにストレートであるために、それを否定するフェル博士の返答はまったく事実に反する*3ものになっています。

 最初の台詞がうまく銃を撃つことに限定されているのですから、フェル博士にはそこだけを否定させるように――例えば以下のようにすることで、よりフェアな記述になったのではないかと思います(その分、ボスクームが犯人ではないと見せかける効果は薄くなってしまいますが……)。
(前略)ボスクームが引き金を引こうとしていたのは、ただ時間つぶしのためだったとはねえ!……」
「ボスクーム? そいつが誰かを射ち殺したんですか?」
「いや、そのつもりだったと認めたんだが――こいつはいささか厄介な事件でね。(後略)
  (太字は筆者が改変)

 はたしてここまでやる必要があったのか、個人的には大いに疑問の残るところで、特に(5)の叙述トリックなどは読者に喧嘩を売っているのかとも思えるほどですが(苦笑)、やる時はとことんやるのがカーの持ち味といえるのではないでしょうか。

*1: カーの他の長編((一応伏せ字)『三つの棺』(ここまで))のように解決場面だけでも部屋の見取図があれば、とも思いましたが、やはり難しいように思います。
*2: このあたりは、アントニイ・バークリーの一部の作品にも通じるところがあるのではないでしょうか。
*3: この場面は事件が解決された後であることに注意。

1999.09.23読了
2010.09.28再読了/2011.04.28『死の時計』読了 (2011.05.10改稿)