ロジックに関する覚書 |
2005.07.09 by SAKATAM |
はじめに |
ミステリを「謎に対して解決が示される物語」と定義(*1)した場合、「謎」及び「解決」が重要な要素となるのはもちろんですが、その両者をつなぎ合わせるもの、すなわち謎に対する解決を示す手続き――謎解きのロジック――もまた、決して軽視されるべきではないでしょう。 この、ミステリにおけるロジックについて、「Junk Land」(MAQさん)経由で興味深い文章を知ることができました。以下に一部引用します。
津田裕城氏によるこの「解明の論理」と「解釈の論理」という考え方、そしてそれを題材にして展開されたMAQさんの「物語と論理」(*2)は、どちらも非常に面白いものであると思います。本稿では、これらを踏まえて、ミステリのロジックについて自分なりに考えたことを書き連ねてみます。 *1: 当サイトの他のページでのミステリの定義(「謎とその解決を中心とした物語」)とは若干異なりますが、ご了承下さい。 |
謎と真相 |
まず、ミステリにおける謎解きがどういうものかを考える上で、興味深いのが「倒叙ミステリ」という表現です。ご承知のようにこの「倒叙ミステリ」は、犯行を犯人の側から描いて真相を(ほぼ)明らかにした上で、それが暴かれていく過程に重点を置いたミステリを指します。しかし、起こった出来事が時系列に沿って描かれるにもかかわらず、「倒叙」(*1)と表現されるのはなぜでしょうか。 オーソドックスなミステリでは、「何が起こったのか?」(*2)が伏せられることで「謎」となり、その後の状態をもとに推理が行われ、最終的に「謎」の真相、すなわち「何が起こったのか?」が解き明かされます。つまり、「現在」の状況が先にはっきりと描かれ、その後に「過去」の状況が描き出されるわけですから、一般にいうところの「倒叙形式」がミステリにおいては基本となっているのです。 そうしてみると、ミステリにおける謎解きとは、一般的には「現在」の(「謎」が生じている)状況をもとにして「過去」を再構築する作業に他ならないといえるでしょう。そして、解き明かされる「真相」とは、「現在」の状況から再構築される「過去」の状況ということになります。 ここで、「現在」の状況をもとに再構築される「過去」の状況が、「現在」の状況との間に矛盾を生じることがあってはならないのは当然でしょう。これを論理学風(*3)に、「謎(「現在」の状況)Pに対して示される真相(「過去」の状況)Qは、Q⇒Pの関係を満たさなければならない」と表現してみます(「過去」の状況がQならば「現在」の状況がPになる、という程度の意味です)。別の表現をすれば、「真相Qは謎Pの十分条件である」といえるでしょう。 *1: 「時間の順序に従わず、現在から過去へさかのぼって叙述すること。」(「株式会社岩波書店 広辞苑第五版」より)。 *2: ここでは、「誰がやったのか?」あるいは「なぜやったのか?」なども含みます。 *3: 以下、随所で論理記号を使用しますが、あくまでも論理学のアナロジーであって(多少なりとも)わかりやすくするための方便とお考え下さい。 |
「解釈」と「解明」 |
「象徴的な手がかりを読み解き」「所与との整合性を保ちながら」「『真相』を作り出す」という「解釈の論理」は、まさにそのまま、「現在」の状況をもとに矛盾を生じないよう「過去」を再構築する手続きであるといえます。あるいは、残された手がかりから引き出される解釈を積み重ねて、「謎Pの十分条件となる解決Q」を求める作業ともいえるでしょう。 ところが、「解明の論理」では少々事情が違います。謎Pに対して示される解決Qが「唯一無二の真相」であるならば、Q⇔P(Q⇒P、かつ、P⇒Q)、すなわち「解決Qが謎Pの必要十分条件である」必要があるでしょう。したがって、「解明の論理」は「謎Pの必要十分条件となる解決Q」を求める作業ということになります。 「解釈の論理」がQ⇒Pを示す手続きであり、「解明の論理」がQ⇔P(Q⇒P、かつ、P⇒Q)を示す手続きであるならば、両者の違いはまず、謎Pと解決Qとの間のP⇒Qという関係(必要条件)を示す手続きの有無にある(*1)、といえるのではないでしょうか。 次項では、このP⇒Qを示す手続きについて検討してみます。 *1: とりあえず一つずつ、ということで。 |
「解明」の手順 |
ミステリの「解明の論理」におけるP⇒Qを示す手続きは、結論からいえば「非Q⇒非P(またはPかつ非Q⇒矛盾)を示す」ことにつきるでしょう(*1)。これはさらに、以下の二つに分けることができます。
<1>任意の非Qについて非Q⇒非Pを示す
<2>Q以外の仮説q1,…,qnについてq1⇒非P,…,qn⇒非Pを示す それぞれの場合について少し説明しておきます。
いずれにしても、ミステリにおける「解明の論理」とは、上記の<1>及び<2>のように他の仮説を排除することによって解決Qが唯一無二の真相であることを示すものといえるでしょう。 *1: 論理学的には他にもあるかもしれませんが、ミステリの謎解きでは事実上これに限られるのではないでしょうか。 |
どこからどこへ? |
前項では「解明の論理」に特有のP⇒Qを示す手続きについて述べましたが、実は「解明の論理」と「解釈の論理」に共通であるはずのQ⇒Pにも、両者の違いが表れます。 「解釈の論理」が「所与との整合性を保ちながら」「『真相』を作り出す」ものであるとすれば、その出発点は「真相」が存在しない状態(もしくは存在しないものとして扱う(*1))ということになるでしょう。つまり、q⇒Pを満たす(任意の)解決qが存在しない(ようにみえる)状態から、手がかりに基づいてQ⇒Pを満たす解決Qを構築するのが「解釈の論理」です。 これに対して、「解明の論理」は前項で述べたように他の仮説を排除することで真相に到達する手法ですから、他の仮説の存在なくしては使い物になりません。逆にいえば、「唯一無二の真相」QについてQ⇒Pが成立するのはもちろんのこと、他の仮説非Q(あるいはq1,…,qn)についても非Q(あるいはq1,…,qn)⇒Pが成立するようにみえる(もしくはそのように扱うことができる)状況でのみ、「解明の論理」は機能し得るのです。したがって「解明の論理」の出発点は、何らかの形で「真相」の候補(複数)が与えられた状態ということになるでしょう。 「解明の論理」が目指すのはもちろん「唯一無二の真相」です。一方、「解釈の論理」は「真相」が「唯一無二」であることを直ちに保証するものではありませんが、求められるべき「真相」はやはり、最終的には「唯一無二」であるべきでしょう。このようにどちらもほぼ同じゴールを目指しながらも、その出発点が違うことによって、「解釈の論理」ではいわば0から1へという正方向のベクトルが生じ、逆に「解明の論理」では複数から1へという負方向のベクトルが生じることになります。 このような謎解きのベクトルの違いは、次項で述べる謎の種類との組み合わせによって、「真相」が示される際の印象を大きく左右します。 *1: 例として、カーター・ディクスン『ユダの窓』を挙げておきます。密室内で死体とともに発見された人物が犯人だという、状況と矛盾しない「真相」は存在しますが、この作品の謎解きはそれを受け入れないところから出発します。 |
謎とロジックの対応 |
まず、MAQさんによる「物語と論理-5」から少しずつ引用します。
謎とロジックとの対応関係については、これに付け加えるべきことはあまりないのですが、落ち穂拾い的に少しだけ。
*1: 余談ですが、『毒入りチョコレート事件』に限らず、アントニイ・バークリーの作品では「解釈の論理」が極端に多用されています。私見では、このあたりにバークリーという作家の特異性が表れているように感じられます。 *2: 謎解きの途中段階では、よりはっきりと「解明の論理」が適用される場合もあり得るでしょう。例えば、密室ものやアリバイものにおいて、現場と他の場所にいる犯人とを結ぶ可算個の経路が存在する時、実際にはどれが使われたのかを「解明の論理」によって特定するという場合などが考えられると思います。 |
「解明」のための「解釈」 |
つまるところ、ミステリにおける謎解きロジックの魅力は、「解釈」という行為にあるのではないかと思います。「解釈の論理」で解決されるミステリはもちろんのこと、「解明の論理」でも同じことがいえるのではないでしょうか。 「「解明」の手順」で述べたように、「解明の論理」とは所定の条件に基づいて「唯一無二の真相」以外の仮説を排除する手続きだといえます。しかし、他の仮説を排除するステップそのものに、面白味が感じられるでしょうか(*1)。 「解明の論理」によって解決される有名な作品として、エラリィ・クイーン『エジプト十字架の謎』を例に挙げてみます。この作品のロジックは一般的に高く評価されていますが、最も面白いのはもちろん最終的に犯人を特定する段階ではなく、ある手がかりの解釈によって、犯人の条件((以下伏せ字)ラベルが貼られていない壜の中身がヨードチンキであることを知っていた人物(ここまで))が示されるところでしょう。 このように、「解明の論理」で最も面白いのは、他の仮説を排除するための条件を導き出す段階であって、その中心となるのは(意外な)手がかりから意外な解釈を引き出す作業だといえるでしょう。「解明の論理」の中にも「解釈」という行為がしっかりと組み込まれており、それこそがミステリにおけるロジックの魅力となっているのではないでしょうか。 そしてもう一つ。ロジックを重視したミステリ、とりわけ「解明の論理」によって解かれるミステリはしばしば、結末の意外性を重視したミステリの対極に位置するものとして扱われますが、そのようなミステリが(伏線によって暗示されるものも含めて)意外な真相に説得力を持たせるためのロジックと無縁でないのと同じように、「解明の論理」によるミステリも、その解明の過程をつぶさにみてみれば、決して意外性と無縁ではないのです。 *1: 消去法によって容疑者が絞り込まれていく過程がスリリングに感じられることはあるでしょうし、霞流一『デッド・ロブスター』のようにその段階の演出に工夫を凝らした例もありますが……。 |
ここまで、とりあえず考えたことを並べてみました。また何か思いついたら追記するかもしれません。 |
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