ロジックに関する覚書

2005.07.09 by SAKATAM


はじめに

 ミステリを「謎に対して解決が示される物語」と定義*1した場合、「謎」及び「解決」が重要な要素となるのはもちろんですが、その両者をつなぎ合わせるもの、すなわち謎に対する解決を示す手続き――謎解きのロジック――もまた、決して軽視されるべきではないでしょう。

 この、ミステリにおけるロジックについて、「Junk Land」(MAQさん)経由で興味深い文章を知ることができました。以下に一部引用します。


与えられたデータをもとにして、「世界」の実像に迫り、唯一無二の真相に到達することを目指すのが「解明の論理」である。(中略)象徴的な手がかりを読み解き、超人的な構成力を駆使して「世界」を紡ぎ出す。それは「解明の論理」とは似て非なる「解釈の論理」である。極論すれば、そこにはもはや「予め用意された真相」という概念はない。ただ所与との整合性を保ちながら、より奇妙でより面白い「真相」を作り出すのだ。
都筑道夫『退職刑事5』(創元推理文庫)
津田裕城氏による解説(284頁)より

 津田裕城氏によるこの「解明の論理」と「解釈の論理」という考え方、そしてそれを題材にして展開されたMAQさんの「物語と論理」*2は、どちらも非常に面白いものであると思います。本稿では、これらを踏まえて、ミステリのロジックについて自分なりに考えたことを書き連ねてみます。

*1: 当サイトの他のページでのミステリの定義(「謎とその解決を中心とした物語」)とは若干異なりますが、ご了承下さい。

*2: 残念ながら、現在は一部を除いて読めなくなっています。


謎と真相

 まず、ミステリにおける謎解きがどういうものかを考える上で、興味深いのが「倒叙ミステリ」という表現です。ご承知のようにこの「倒叙ミステリ」は、犯行を犯人の側から描いて真相を(ほぼ)明らかにした上で、それが暴かれていく過程に重点を置いたミステリを指します。しかし、起こった出来事が時系列に沿って描かれるにもかかわらず、「倒叙」*1と表現されるのはなぜでしょうか。

 オーソドックスなミステリでは、「何が起こったのか?」*2が伏せられることで「謎」となり、その後の状態をもとに推理が行われ、最終的に「謎」の真相、すなわち「何が起こったのか?」が解き明かされます。つまり、「現在」の状況が先にはっきりと描かれ、その後に「過去」の状況が描き出されるわけですから、一般にいうところの「倒叙形式」がミステリにおいては基本となっているのです。

 そうしてみると、ミステリにおける謎解きとは、一般的には「現在」の(「謎」が生じている)状況をもとにして「過去」を再構築する作業に他ならないといえるでしょう。そして、解き明かされる「真相」とは、「現在」の状況から再構築される「過去」の状況ということになります。

 ここで、「現在」の状況をもとに再構築される「過去」の状況が、「現在」の状況との間に矛盾を生じることがあってはならないのは当然でしょう。これを論理学風*3に、「謎(「現在」の状況)Pに対して示される真相(「過去」の状況)Qは、Q⇒Pの関係を満たさなければならない」と表現してみます(「過去」の状況がQならば「現在」の状況がPになる、という程度の意味です)。別の表現をすれば、「真相Qは謎Pの十分条件である」といえるでしょう。

*1: 「時間の順序に従わず、現在から過去へさかのぼって叙述すること。」(「株式会社岩波書店 広辞苑第五版」より)。

*2: ここでは、「誰がやったのか?」あるいは「なぜやったのか?」なども含みます。

*3: 以下、随所で論理記号を使用しますが、あくまでも論理学のアナロジーであって(多少なりとも)わかりやすくするための方便とお考え下さい。


「解釈」と「解明」

 「象徴的な手がかりを読み解き」「所与との整合性を保ちながら」「『真相』を作り出す」という「解釈の論理」は、まさにそのまま、「現在」の状況をもとに矛盾を生じないよう「過去」を再構築する手続きであるといえます。あるいは、残された手がかりから引き出される解釈を積み重ねて、「謎Pの十分条件となる解決Q」を求める作業ともいえるでしょう。

 ところが、「解明の論理」では少々事情が違います。謎Pに対して示される解決Qが「唯一無二の真相」であるならば、Q⇔P(Q⇒P、かつ、P⇒Q)、すなわち「解決Qが謎Pの必要十分条件である」必要があるでしょう。したがって、「解明の論理」は「謎Pの必要十分条件となる解決Q」を求める作業ということになります。

 「解釈の論理」がQ⇒Pを示す手続きであり、「解明の論理」がQ⇔P(Q⇒P、かつ、P⇒Q)を示す手続きであるならば、両者の違いはまず、謎Pと解決Qとの間のP⇒Qという関係(必要条件)を示す手続きの有無にある*1、といえるのではないでしょうか。

 次項では、このP⇒Qを示す手続きについて検討してみます。

*1: とりあえず一つずつ、ということで。


「解明」の手順

 ミステリの「解明の論理」におけるP⇒Qを示す手続きは、結論からいえば「非Q⇒非P(またはPかつ非Q⇒矛盾)を示す」ことにつきるでしょう*1。これはさらに、以下の二つに分けることができます。

<1>任意の非Qについて非Q⇒非Pを示す
<2>Q以外の仮説q1,…,qnについてq1⇒非P,…,qn⇒非Pを示す

 それぞれの場合について少し説明しておきます。

<1>任意の非Qについて非Q⇒非Pを示す
 解決Q以外の任意の仮説が成り立たないことを示すものです。典型的な例としては、容疑者Aが犯人しか知り得ない事実xを知っていた場合(容疑者A以外の人物が犯人という仮説が成り立たない)などがあるでしょう。

<2>Q以外の仮説q1,…,qnについてq1⇒非P,…,qn⇒非Pを示す
 こちらはおなじみの消去法です。想定される仮説の数がはっきりと限定されている場合に、真相ではあり得ない仮説を排除していき、最後に残ったものが「唯一無二の真相」だと結論づける手法です。

 いずれにしても、ミステリにおける「解明の論理」とは、上記の<1>及び<2>のように他の仮説を排除することによって解決Qが唯一無二の真相であることを示すものといえるでしょう。

*1: 論理学的には他にもあるかもしれませんが、ミステリの謎解きでは事実上これに限られるのではないでしょうか。


どこからどこへ?

 前項では「解明の論理」に特有のP⇒Qを示す手続きについて述べましたが、実は「解明の論理」と「解釈の論理」に共通であるはずのQ⇒Pにも、両者の違いが表れます。

 「解釈の論理」が「所与との整合性を保ちながら」「『真相』を作り出す」ものであるとすれば、その出発点は「真相」が存在しない状態(もしくは存在しないものとして扱う*1)ということになるでしょう。つまり、q⇒Pを満たす(任意の)解決qが存在しない(ようにみえる)状態から、手がかりに基づいてQ⇒Pを満たす解決Qを構築するのが「解釈の論理」です。

 これに対して、「解明の論理」は前項で述べたように他の仮説を排除することで真相に到達する手法ですから、他の仮説の存在なくしては使い物になりません。逆にいえば、「唯一無二の真相」QについてQ⇒Pが成立するのはもちろんのこと、他の仮説非Q(あるいはq1,…,qn)についても非Q(あるいはq1,…,qn)⇒Pが成立するようにみえる(もしくはそのように扱うことができる)状況でのみ、「解明の論理」は機能し得るのです。したがって「解明の論理」の出発点は、何らかの形で「真相」の候補(複数)が与えられた状態ということになるでしょう。

 「解明の論理」が目指すのはもちろん「唯一無二の真相」です。一方、「解釈の論理」は「真相」が「唯一無二」であることを直ちに保証するものではありませんが、求められるべき「真相」はやはり、最終的には「唯一無二」であるべきでしょう。このようにどちらもほぼ同じゴールを目指しながらも、その出発点が違うことによって、「解釈の論理」ではいわば0から1へという正方向のベクトルが生じ、逆に「解明の論理」では複数から1へという負方向のベクトルが生じることになります。

 このような謎解きのベクトルの違いは、次項で述べる謎の種類との組み合わせによって、「真相」が示される際の印象を大きく左右します。

*1: 例として、カーター・ディクスン『ユダの窓』を挙げておきます。密室内で死体とともに発見された人物が犯人だという、状況と矛盾しない「真相」は存在しますが、この作品の謎解きはそれを受け入れないところから出発します。


謎とロジックの対応

 まず、MAQさんによる「物語と論理-5」から少しずつ引用します。


whodunitの謎は「解明の論理」によって解かれ、whydunitおよびhowdunitは「解釈の論理」によって解かれる。
「犯人は誰か?」の謎解きというのは、基本的に登場人物表に記載された複数の選択肢から、所与の条件に合った適切な1人もしくは複数を選び出す/特定する論理的操作にほかなりません。
howdunit/「いかにやったか?」ならば、たいていは密室殺人などの不可能犯罪が「どのようにして行なわれたのか?」、その犯行方法が問われます。つまり“不可能犯罪のメカニズムの説明”が求められているわけで――要するにこれってマークシート方式でなく「記述式の問題」なんですね。
whydunit/「なぜやったか?」の謎とは、つまり「犯行動機」を問うものですから、いわば“人の心を解釈しよう”という謎解きだといえるでしょう。howdunit同様「記述式の問題」となるのは当然ですし、内容からいっても論理性を貫くのははいちだんと難しいでしょう。
MAQさん(「Junk Land」
「物語と論理-5」より

 謎とロジックとの対応関係については、これに付け加えるべきことはあまりないのですが、落ち穂拾い的に少しだけ。

・フーダニット
 所定の容疑者の中から犯人を選び出すフーダニットが、「解明の論理」と相性がいいのはもちろんです。というよりも、「解明の論理」が適用できるのはほぼフーダニットのみに限られるといっても過言ではないでしょう。そして、フーダニットと「解明の論理」の組み合わせは、解決において強い収束感を生じる傾向があります。
 ただし、すべてのフーダニットが「解明の論理」によって解決されるわけではない、ということには注意すべきです。例えば、アントニイ・バークリー『毒入りチョコレート事件』は純然たるフーダニットですが、ほぼ全編が「解釈の論理」に支配されているといっていいでしょう*1

・ホワイダニット
 可能性としてはおよそどのようなものでもあり得る動機を、「解明の論理」で解き明かすことはまったく不可能です。したがって、ホワイダニットにおける謎解きは「解釈の論理」によってのみ行われるということになります。
 基本的には、通常想定できる動機が否定されるところから始まり、蓋然性の高い解釈を積み重ねていくことで謎が解かれます。「解釈の論理」の正方向のベクトルと意外な真相が組み合わされることで、収束とは逆方向の飛躍ともいうべき効果が期待できるでしょう。が、真相を支えるべき「蓋然性の高い解釈」というのがくせもので、一つ間違えると説得力を欠いた、納得しがたい「真相」になってしまうのが難しいところです。

・ハウダニット
 「いかにして行われたか?」という謎に対する解決は、原則として「解釈の論理」によって導き出されることになるでしょう。「真相」は選び出されるのではなく、構築されなければならないのです。
 ところが、ホワイダニットと同じ「解釈の論理」によるものでありながらも、ハウダニットの解決に「収束」という印象を持つのは、おそらく私だけではないでしょう。その違いは、一体どこにあるのでしょうか。

・ホワイダニットとハウダニットの違い
 一つには、いわば「初期状態」の違いによる影響が考えられます。動機が不明なホワイダニットと手段が不明なハウダニット、と表現すれば同じようにみえますが、可能性としては無数に存在し得るものの「真相」が想定できないホワイダニットに対して、ハウダニットでは可能な「真相」が存在し得ないようにみえる(いわゆる不可能状況)のです。その不可能状況下でそれを打破する一つの「真相」が示されると、その「真相」以外の任意の仮説が否定された場合(「「解明」の手順」の<1>を参照)と同じような印象を与えることになるでしょう。
 そしてもう一つが、解釈の取捨選択の指標です。一般に、手がかりからはある程度多様な解釈を引き出すことができると思われるので、謎を解くためにはそこから適切な解釈を選択する必要があります。そして、ホワイダニットの場合には先にも述べたように、主に蓋然性の高低がその指標となるのですが、ハウダニットではさらに可能/不可能という指標が加わり、不可能な解釈が排除されていくことになるでしょう。結果として、「解釈の論理」による謎解きの途中に「解明の論理」が入り混じった形になるのではないでしょうか*2

*1: 余談ですが、『毒入りチョコレート事件』に限らず、アントニイ・バークリーの作品では「解釈の論理」が極端に多用されています。私見では、このあたりにバークリーという作家の特異性が表れているように感じられます。

*2: 謎解きの途中段階では、よりはっきりと「解明の論理」が適用される場合もあり得るでしょう。例えば、密室ものやアリバイものにおいて、現場と他の場所にいる犯人とを結ぶ可算個の経路が存在する時、実際にはどれが使われたのかを「解明の論理」によって特定するという場合などが考えられると思います。


「解明」のための「解釈」

 つまるところ、ミステリにおける謎解きロジックの魅力は、「解釈」という行為にあるのではないかと思います。「解釈の論理」で解決されるミステリはもちろんのこと、「解明の論理」でも同じことがいえるのではないでしょうか。

 「「解明」の手順」で述べたように、「解明の論理」とは所定の条件に基づいて「唯一無二の真相」以外の仮説を排除する手続きだといえます。しかし、他の仮説を排除するステップそのものに、面白味が感じられるでしょうか*1

 「解明の論理」によって解決される有名な作品として、エラリィ・クイーン『エジプト十字架の謎』を例に挙げてみます。この作品のロジックは一般的に高く評価されていますが、最も面白いのはもちろん最終的に犯人を特定する段階ではなく、ある手がかりの解釈によって、犯人の条件((以下伏せ字)ラベルが貼られていない壜の中身がヨードチンキであることを知っていた人物(ここまで))が示されるところでしょう。

 このように、「解明の論理」で最も面白いのは、他の仮説を排除するための条件を導き出す段階であって、その中心となるのは(意外な)手がかりから意外な解釈を引き出す作業だといえるでしょう。「解明の論理」の中にも「解釈」という行為がしっかりと組み込まれており、それこそがミステリにおけるロジックの魅力となっているのではないでしょうか。

 そしてもう一つ。ロジックを重視したミステリ、とりわけ「解明の論理」によって解かれるミステリはしばしば、結末の意外性を重視したミステリの対極に位置するものとして扱われますが、そのようなミステリが(伏線によって暗示されるものも含めて)意外な真相に説得力を持たせるためのロジックと無縁でないのと同じように、「解明の論理」によるミステリも、その解明の過程をつぶさにみてみれば、決して意外性と無縁ではないのです。

*1: 消去法によって容疑者が絞り込まれていく過程がスリリングに感じられることはあるでしょうし、霞流一『デッド・ロブスター』のようにその段階の演出に工夫を凝らした例もありますが……。


 ここまで、とりあえず考えたことを並べてみました。また何か思いついたら追記するかもしれません。


黄金の羊毛亭 > 雑文 > ロジックに関する覚書