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次に紹介いたしますのは、Y.T.先生の論です。
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       『一隅を照す者 是れ國寶』


  「一隅を照す者 是れ國寶」
 20年程前、当地の新聞に、”伝教大師の「一隅を照らす者 是れ國寶」 は、実は「千里を照らす者 是れ國寶」で「千」を「于」と誤ったもので、 大師の本意はもっとスケールの大きなものであった。”とあり、大変 驚きました。
「一隅を照す・・・」の方が遙かに宗教家の言葉に相応しく、千里を照す では当たり前すぎて、意味を成さないと思ったからです。 それで、不審に思い調べてみました。
 梅原猛氏の「最澄」に、丁度この場所の写真があり、それを見ると: 「国寶何物 寶道心也 有道心人 名為國寶 故古人曰 径寸十枚 非是國寶 照千一隅 此則國寶」 とあります。
 この原文を見ると、これは最澄の言葉ではなく引用で有る事が分かります。
 しかも筆で書かれた字は、どう見ても「千」で「于」と誤りようがありません。 「故古人曰 径寸十枚 非是國寶 照千一隅 此則國寶」を見れば、私ですら あぁ此は史記の田敬仲完世家にある斉の威王と魏の恵王の国宝問答から 採ったな、と分かります。比叡山の碩学が誤る筈はありません。 当時は勿論、今の様に印刷は無く、人から人への筆写であり、それも最澄の オリジナル本は、秘蔵され弟子達の写本が次々と伝えられていったのでしょう。 その中、誰かが「照于一隅」と写し誤ったのが、これはこれで最澄の本意に 適うとして後人が、本文とは関係なく是を採用したのだと思います。
 私の解釈を、寸劇にしてみます(この方が理解し易いので)。


時: 最澄没後四半世紀頃。
所: 比叡山僧坊、Aの部屋。
人物: 二人  一人は入門僧(A)。今一人はその教育係の兄弟子(B)。

             第一場  (AとB、連れだってAの部屋へ登場。B、Aに向かって一冊の写本を渡し)

B「これが先師の山家式部集じゃ。私も入門時、兄弟子から写本を  お借りして写したのだ。そなたに此を貸す故、筆写して勉強されよ」
A「其れは有難う御座います」 (B.退場。A.部屋に残り、机に向かい写本を拡げ写し始める)
A「なになに、照千一隅 此則國寶 何じゃこれは?先師は唐へ留学された  碩学。こんな変な漢文を書かれるはずはないぞ。あっそうだ、師兄が  きっと于を千と書き誤ったに違いない。其れで意味が通る」


             第二場 (数日後、Aの部屋。Bが登場。A.に向かって)

B「どうじゃ、写し終えたかの?」 A「はい、したが師兄、一カ所、写し誤りが有ったようですが」
B「ほぅ そうか?何処じゃ」
A「ここで御座います。ここは于と有るべきで御座いましょう」
B「ははは、さてさて無学な者は度し難いのう。これは史記の故事に依った  ものじゃ。これから、もっと勉強せねばそなた、ものには成らぬぞ」 (と、云いながら、ジッと”照于一隅 此則國寶”を見る。暫くして肯きながら)
B「したが、”一隅を照らす 此れ國寶”はこれだけ見ると仲々面白い。先師の  お心にも良く適う。よし、次の説法で此を使わして貰うぞ」
A「えへん、師兄、私奴もまんざら棄てたものでは御座いますまい」
B「ははは、ま、これは怪我の功名じゃな。今後一層勉強されよ」

             −幕−  

 こんな所から、これが最澄の教えとして流布していったのだと私は考えます。

                   天台教義         
誤解先師莫道愚
三乗玄義孰知乎
郢書燕説古来衆
千歳勝称照一隅

平成16年1月元旦 


                                                               

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2004.1.2掲載





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