びっくりする発言だった。講演会で「笑いを獲る」ためだったのだろうか。お粗末な発言である。攻防一週間、やっと終熄するするのか。右を向いても左を見ても、の絡み合いである。
公よ、言葉とは、綸言に譬えるのは畏れ多いことだが、「汗の如きもの」である。
ただ、発言内容とは別のことになるが、余りにも同じことばかりテレビで繰り返されると、うんざりしてくる。我々大衆を教育・啓蒙しているつもりなのだろうか。扇動しているのだろうか。余りにもくどくどしい。「人権」、「人道」、「女性問題」といった照魔鏡をかざせば、こうしていってもいいものなのだろうか。
我々自由を謳歌する民主主義国家の国民を、1957年中国の反右派闘争の時の中国人民のようにしたいのか。彼等の血涙の教訓を知らないのか。輿論とは、このように作られていくものなのか? これは「正義と人権」のための情報操作というべきか、一種の報道管制ではないのか。(わたしは、公の発言には同感しないが、思想統制には反対する。)嘗ての中国風にいうと、“運動”、“批判”であり、“教育”、“批評”、“学習”への路である。
このようなことを繰り返していくと、相公の発想法への指弾という本来の目的から離れてしまい、男女間の問題となり、「言葉狩り」となってくる。文字獄ということか。
大袈裟に論(あげつら)わなくとも、「いじめ」問題が、なかなか解決できないという事情も、このことのお蔭で浮き彫りになってきた。ヒトの本性に関わる行為なのか…。
男は『企喩歌』「男兒可憐蟲,出門懷死憂。尸喪狹谷中,白骨無人收。」の世界。それも天命。哀れ。 |